2006年 新年聖会報告記     青梅教会 中上勝雄

 1月3日、今年は例年になく厳しい寒さの中でしたが、関東教区の教会を中心に牧師、兄弟姉妹たちが御茶ノ水クリスチャンセンターに集い、神の言葉に耳を傾けた。
 今回の新年聖会は、午前の部では小笠原孝師より、ルカ三・一〜一七から「新しい時代の幕開け ‐荒野で受ける神の恵み‐」と題してメッセージが語られた。荒野とは一見するとどうにもならない場であり、悩みと苦しみの場に思える。現代の日本に住む私たちにとっては、荒野とは冷たく暗い社会であり、また問題の多い私たちの現実とも言える。しかし、このような荒野こそが、実は恵みの場であると聖書は告げている。なぜなら、まず荒野のような状況でこそ、神の言葉が与えられるからである(ルカ二・二〜四)。そしてそのような状況において、人は悔い改めに導かれる(三〜九)。特に現代のクリスチャンは、悔い改めについて正しい理解が必要である。悔い改めとは決して後ろ向きのものではなく、喜ばしく素晴らしいものである。聖霊の光によって罪を認識することから始まるのであり、それは決して神の義の恐怖からなされるものではなく、神の慈愛に感動してなされるものである。この悔い改めと、十字架で罪のために犠牲となられたイエス様への信仰こそが、私たちの核心となるべきものである。そのような中で、私たちは悔い改めの実を結ぶのである(八、九)。このような悔い改めの恵みに入るのに妨げとなるのは、固く冷たい、石のような私たちの心である。しかし神様は、石ころからでも神の子を起こしてくださると言っておられる(八)。この主に信頼して心を開くなら、主は私たちに主の道を用意してくださる(四)。私たちは愛の共同体を回復しながら(一〇〜一四)、一人ひとりが聖霊のバプテスマ(満たし、きよめ)を受けることができるのである(十六、十七)。誰もがそれぞれの荒野を歩むが、そこにこそ主の恵みと希望があることが語られた。 
午後の部では、鈴木留蔵兄が主から受けた宣教への励ましの証し、筆者の青年宣教大会「すっと関東」の証しの後、濱野好邦師より、イザヤ六〇・一から「起きよ。光を放て。」と題してメッセージが語られた。主は私たちに、クリスチャンとして輝けと命じておられる。私たちが光輝くにはどのようにすれば良いのか。それは先ず、「キリストに似た者になりたい」という強い気持ちを持つ必要がある。この気持ちこそが、まさに「クリスチャンの心」であると言える。やがて再臨される主にお会いするなら、私たちはキリストに似た者、完全な者とされる(气ハネ三・二)。それに希望を持ちつつ、地上でもキリストに似た者に成長するよう生きるのである。次に私たちは何者であるか、「クリスチャンの定義」を忘れてはならない。气ハネ二・一四にあるように、私たちはイエス様によって罪が赦されている平安を持ち、父なる神様と深い交わりを持っている存在であり、みことばと聖霊によって悔い改め、教えられて生きていく存在なのである。そこには希望と確信が常にある。そしてそのような存在の私たちは、ミカ六・八にあるように、公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩む「クリスチャンの歩み」をする必要がある。ここで重要となる「公義」とは、あらゆる世界において絶対的な正義であり、その正義とは「赦すこと」である。神が罪深い私たちを赦された方であり、究極的には「赦す神」であられるように、私たちもへりくだり、人を赦す者とならせていただきたい。これらが主の私たちに求めておられることであり、私たちが光輝くために必要なことである。
説教者の親しみのあるアプローチに、会場には終始、笑顔とうなずきがあった。それぞれが神様の励ましと目標を胸に、また新しい信仰の戦いへと遣わされて行った。