第20201201号
「真理への奉仕者」
目黒教会
横山 聖司
キングダム【20201201】号
「真理への奉仕者」 へブル10:1〜10 「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。…キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(へブル10:1〜10)。 教会は、持てるすべてのものを総動員し、キリストをわかりやすく伝え、証しする。人間は乏しいながら色々なものを持っているはずだ。 「ある父親に二人の息子があった」と、イエスは言われる。罪深い弟息子と、これを深い愛で受け止める父の姿を通し、神の御心を示したのだ。これは自分の家庭でも起こりうる、誰の人生にもある素材だ。 へブル人への手紙は、独特なユダヤ教的思想体系を有し、律法的動物犠牲と密着している。これがこの著者の手持ちの材料だ。民数記の記事だが、「長老さま、大変です。町はずれで人が殺されています。誰が犯人かわかりません」。「さようか。では雌牛を連れて来なさい」。殺人犯を処刑する代わりに、雌牛の首を折る。これにより忌まわしい流血事件の余波が、神の怒りがイスラエル民族に及ばない。よかった、よかった、なのである。ユダヤ人は長い間、こうした考え方に慣れ親しんできたし、彼らにとっての手持ちの材料である。この手持ちの材料で、イエスの十字架をわかりやすく伝えたのだ。 人間の心は乏しく、つまらないものしか持っていない。「律法」は、むなしいものだと新約聖書は訴える。今、むなしい律法が、むなしくないお方を指し示す。 教会は、今持っているもので、イエスをわかりやすく伝えることだ。手持ちのものは大したものではない。今まで、家庭や職場で体験したことはすべて手持ちの材料だ。私自身、今年に入って経験したこと…鬱病を患い入院したこと、意識が飛んで転倒、骨折したこと、血液系の難病の悪化…すべてむなしいものだった。そのむなしいものがキリストを指し示す。 それが生きる苦難の意味であり、むなしい経験が真理の奉仕者となる。これがキリストにささげた生涯だ。 キングダム2020年12月号より