第20210801号
「神を愛するとは、神の命令を守ることです」
目黒教会
横山聖司
キングダム【20210801】号
「神を愛するとは、神の命令を守ることです」 Tヨハネ5章3節 水が美しい。草が美しい。花が美しい。神が創造した大地はのどかな楽園になった。太陽の光が穏やかに輝き(静かだなあ)、人間は太古からこんなのどかさを愛したのだろうか。だが、ここに登場するのが蛇である。雲が湧き、日が陰り、風が起こり、夜が近づいてくる。静けさが恐怖を帯び始める。人類はこの事態を恐れていたのだ。エデンの園、そこは〈善か悪か〉そんな風土の土地であった。 「神は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない』」(創世記2・16〜17)。 神の創造のテーマは二つ、物(天体、動植物など)と人間である。この両者を区別する要素は、神のかたちを宿しているかどうかだ。それは、誰かを愛する力であり、善か悪か、何かを選び何かを捨てる選択力だ。一方〈物〉は、神が定めた自然の法則に支配、強制され存在しているに過ぎない。春に桜が咲き、夏にはひまわり、秋にはコスモスの花がゆれる。そこに選択の余地はない。桜の木が(今年は真冬に咲くぞ!)と、のたまえないのは、選択の余地が与えられていないからだ。だが神は、人間に対し、この強制力を発動されなかった。強制する代わりに、命令されたのだ。「神は人に命じて仰せられた」(創世記2・6)。強制と命令とは別物である。はっきりとした区別がある。強制に選択の余地はなく、命令は善悪を目の前にする。神を愛し、神に従うとは、良い道を選ぶことだ。人生は良い道しか存在しないような甘ったれたものではない。事実、アダムとエバの目の前にも、良い道だけが存在していたわけではない。「神を愛するとは、神の命令を守ることです」(Tヨハネ5・3)。愛にはその性質上、選択肢が伴う。裏切る能力もある。約束を破る選択の余地もある。(だが神よ、私はあなたに従います)。愛とはそういうものだろう。 人間に、選択肢を与えて命令された神は誉むべきかな! キングダム2021年8月号より