第20230201号
何に力を注ぐのか
練馬教会
横田義弥
キングダム【20230201】号
「【主】の御名によって預言している人がもう一人いた。キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの都とこの地に対して、エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた。」 (エレミヤ26・20) エレミヤ書26章20-24節には預言者ウリヤとエレミヤのことが記されています。時代はいよいよ悪い方へ向かっています。南ユダ王国は風前の灯です。しかし王も民も分かっていません。その中で主のみことばを取り次いだのがウリヤとエレミヤでした。二人は都と地に対して主の御名によって預言しました。するとエホヤキム王はウリヤを殺そうとし、ウリヤはエジプトに逃れるが、王の手下に捕まり剣で打ち殺されました。当然エレミヤの命も狙われます。しかしシャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、命は守られました。預言者の一人は殺され、一人は生かされました。不条理、ウリヤは無念、惨め、浮かばれない…、しかしそうだろうか? 使徒パウロのことばが響いてきます。 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14・8)。 ウリヤは主を仰いで真剣にみことばに聴き、確信もってみことばを取り次ぎ、みことばによって勇敢に戦う勝利者として死にました。エホヤキム王の周りには王におもねる預言者たちがいましたが、ウリヤは彼らとくみしませんでした。一方、エレミヤは生かされました。ウリヤの死を受けていよいよ召命と使命を覚えたことでしょう。それによって今日エレミヤ書があります。 時に時代は悪い方へ向かいます。その中でキリスト者はどう生きるのか? エレミヤの命がアヒカムによって守られたように、私たちの命も守られています。生きているのではなく、生かされています。私たち教会は主のものです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」との告白が湧き上がるほどに、十字架の愛と復活の希望が臨んでいます。私は牧師として何に最も力を注ぐべきなのか? 主のみ旨を真剣に求め、悪い時代に屈することなく、おもねることなく、みことばを取り次ぎ、みことばに生きたウリヤとエレミヤが迫ってきました。新年を迎えました。あなたは何に力を注ぐのか? 主が私たちに語られるみことばを真剣に聴き、十字架のことばに迫られ、砕かれ、復活の勝利のみことばに満ち溢れる教会であるよう祈ります。 キングダム2023年2月号より