第20240601号
「病んだ時代」(黙示録3・14〜19) 」
目黒教会
横山聖司
キングダム【20240601】号
ヨハネの黙示録は、病んだ時代の反映で、大きな渦に似ている。一帯にさざ波が立ち、そのさざ波が大きくまとまって外渦となり、ぐるぐる回りながら次第に輪を小さくして収斂し、破滅を目指す。 七つのラッパも、七つの鉢も、さざ波のひとつ。黙示録は七つの教会宛の手紙であり、現代教会とされるラオデキアも含まれている。 「あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(3・17)。現代教会の逼塞した姿を描いて見事である。一気に本丸に攻め込もうとする気配がある。 ラオデキア教会は、黒色を帯びる教会の中でも際立ってどす黒い。一見素晴らしい時代に見える。ベンツもフェラーリも街中に珍しくなく、女子高生まで、ルイヴィトンや、プラダの製品を持っている。今の日本はこれより外に自慢するものはなにもない。 金持ちだけが良い思いをする資本主義制度。もっとも人間、老いてくると金だけが頼りになる。黙示録という手紙を開封した瞬間は決定的であった。 黙示録の本質は、開封した瞬間、生き方を変えようと思うかどうかだ。 世間には存在するのだ。こんな教会が…。ゆっくり考えれば、「富んでいると言って、みじめで、哀れで、裸の者であることを知らない存在がまともなわけがない。いっときはハレルヤ≠連呼しても、隙があればすぐに金や名誉に走る。あのお方は弱さを身にまとう者の味方ではあるが、甘いお方ではない。 見るものはちゃんと見ている。その不気味さをきっかり描いて、教会に手紙を送りつけてきたところに凄さを感じる。時代が病んでいるのは一向にかまわないけれど、教会も病んでいるとなると、何もかもが悪すぎる。 「狭い門から入りなさい」を掲げ、教会はどこに行こうとしているのか。 手紙を読み終えて残るものは辛さよりも虚しさの方である。ここから抜け出すことは極端に難しい。 教会の習慣やものの考え方にも旧態依然たるものが幾つも残っているのだから。 なんたってわたしはあなたの行いを知っている≠ニの手紙である。 「教会って何なの?」この問いと向き合う長い旅路になりかねない。 まずは神のみこころを問おう。 「だから熱心になって悔い改めなさい」(3・19)。と勧めるのだから、神の意志を差し出されたら従うよりほかにない。 エンド・マークとして心残りは何もない。 キングダム2024年6月号より