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主イエスはご在世当時、集まって来た多くの群衆よりも、少数の弟子教育に専心された事がわかる。勿論主は群衆を無視されたわけではないが、弟子訓練を優先された。つまり、将来用いられて、主の証人となるべき人物を育て上げられたのである。これは私たちにとっても大きな教訓であり、模範である。
主の弟子とは誰であろうか。聖書から学ぶことにしよう。新約聖書だけでも「弟子」という言葉を拾ってみると271回もある。「群衆」という言葉の方が遥かに少ない。
さて「主の弟子」とは、第一に、主を第一に愛する者である(1.コリント16:22)。
神第1、家庭第2、教会第3と言われるが、いずれにせよ主イエスを愛する事は第一である。子供賛美歌にも「イエスさまが1番」というのがあるが、私も最も好きな賛美の一つである。
聖められるとは即ち、主イエスを第一に愛する者と聖霊によって変えられる事である。すべての罪、咎、過ちは皆、この愛の欠如より起こり来るのであって、教会の堕落もその原因を思えば皆ここから生じて来るものである。
新約聖書には六人のマリヤが登場するが、主イエスを第一に愛するという点では皆共通していたようである。
イエスの母マリヤは「臨在信仰」に生きる事によって特にその愛を表わし(ルカ1:28)、ベタニヤのマリヤは「みことばを聴く信仰」に生きる事により(ルカ10:39)、マルコの母マリヤは「祈る信仰姿勢」をもって(使徒12:12)、クロパの妻マリヤは「十字架のそばまで大胆に従う信仰」をもって(ヨハネ19:25)、ローマのマリヤは「救霊の愛の労苦を惜しまない信仰」をもって(ローマ16:6)、マグダラのマリヤは「主を待ち望む信仰」をもって(マルコ16:9)、それぞれの立場にあって主イエスを第一に愛して、その足跡を私たちに残している。
私たちもその立場、奉仕内容、生活も異なっているとしても、動機はイエスさまが一番であるべきだ。これが聖めの生涯であり、また、主の弟子としての生き方ではなかろうか。
第2に、キリストにとどまる者である(ヨハネ8:31〜32)。
私たちクリスチャンにとって大切な事は、真理であるキリストにとどまって離れない事である。離れては何事もなし能わぬのがクリスチャンであり、とどまるならば多くの実を結ぶのがクリスチャンである(ヨハネ15:5)。これこそがキリストの弟子の姿である。
真理とはキリストご自身である(ヨハネ14:6)。このキリストのみが人間に自由を与えられるのである(ヨハネ8:36)。
自由とは、律法からの自由解放であり(2.コリント3:17)、罪からの自由解放であり(ローマ8:1〜2)、死からの自由解放である(1.コリント15:53〜57)。
このようにキリスト以外には、この真実の自由を与えるものはない。このようにキリストは、十字架の贖いによって、人間では生涯をかけてもどうにもならなかった罪と死と悪魔の力から解放して下さったのである(ガラテヤ5:1)。
このようにキリストの十字架の力によって、キリストの言葉によって、キリストの御霊の力によって、私たちを解放して下さい、キリストの弟子として下さったのである。弟子とは「解放された者」の意である。
第3に、キリストの苦しみにあずかる者である(ルカ14:26〜27)。
人間は自然のままでは自己中心であり、肉欲が支配してくる。しかし、キリストの弟子となろうと思う者は、自己中心の生き方を憎む者でなければならない。しかし、これは人情的な憎悪ではない。自己本位に生きる生き方に対する憎しみである。勿論これは聖霊にご支配されてのみ可能になる。聖霊を受ける前の弟子たちの姿を見ればわかり、これは私たちにとっても同じで、聖霊によって歩む事の大切さが良くわかる(ガラテヤ5:16)。
キリストの弟子たる者は、キリストの苦難をともに受けなければならない。それが弟子の負うべき十字架である(ピリピ1:29)。「十字架なくして冠なし」とは、その事であろう。そしてキリストの御霊は、それを見事に勝たしめて下さるお方であるから、ハレルヤ!私たちは再臨信仰に立って、日々「アーメン、主イエスよ来て下さい」と、主の来る日を待望して生きている者である。そして聖書は、再臨の栄光を受ける者は、その苦難を共にしている者だと明言している(ローマ8:17〜25)。この苦難を受けながら、御国を待望している者が、真のキリストの弟子である。
世界の移り変りはかつてない程に激しい。しかし、それを見る度に再臨の近きを覚える。今こそキリストの弟子としての任務を果たす時ではなかろうか。祈りとみことばに仕える厳粛な時ではなかろうか。
第4に、世界宣教に生きる者である(マタイ28:19〜20)。
私たちの宣教場所は、全世界である。宣教命令は、全人類に福音を伝えて、キリストの弟子とする事である。しかし、一人でするのではなく、主と共になすべき仕事である。そして弟子が弟子を生み出すために、共に生みの苦しみをするというのが聖書の教えである。自分一人が救われて天国に入るというのではなく、その一人がアブラハムとなって、多くの人々を霊の子供として生み出す事である(1.コリント4:15)。
そのためにクリスチャンである私たちは、一人残らず「弟子訓練(又は、弟子教育)」を受けねばならない。訓練を受けない兵隊はいないように、神の国の一兵卒として一人一人が訓練されて、キリストの福音宣教に役立つキリストの弟子とされたいものである。
祝福が基督聖協団に豊かにあるように祈りつつ。
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