第17回 ディボーションによる生活

基督兄弟団名古屋教会牧師    毛戸健二 

 イエス様はご在世当時、自らディボーションの生活を弟子達に見せてくれた。ディボーションは私達にとって、霊的生命を保持する唯一の道とも言える。
 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(1.ヨハネ1:3)。
 つまりイエス様の出現の大目的は、私達クリスチャンを父なる神との交わりにあずからせ、また互いに交わりを持たせるためであった。この神との霊的交通について学びたい。

1、ディボーションの必要性


1)早朝を神との交わりに捧げよう。
 「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩篇5:3)。
 「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。

 主の弟子たる者は、何をするにも勝って、一日の一番最初の時間を神と共に過ごさねばならない。特に伝道者は、一日の働きに対して、神の声を聞かずに飛び出して行くようでは、活動的と言うより、本当は無知な伝道者と言われても仕方がない。まず神との交わりを第一にし、後の事は第二、第三とする人こそ主の弟子ではなかろうか。聖書の中にある全ての聖徒、又、神の人と唱えられる人達は全部例外なしにこの実践に生きた人と言える。聖書には「朝早く」という言葉が少なくない。私達も朝の時間を、ディボーショナルな時を持つ習慣を身につけたいものである。
2)多くの聖徒がこの原則に従って主の弟子として働いて来たと証しされている。
 ジョン・ウェスレーは毎朝四時に起床して、一人神様の前に座っていたという。彼の力と、その超人的な働きの秘密の源泉は、そこにあったと言われている。ハドソン・テーラの生涯を見ても、彼が朝早く跪いてお祈りしている姿を見ないでは、中国大陸に太陽が上がった事がないと言われるほどに神の前に朝早く祈った人であった。マルチン・ルターも朝早く三時間ほど神との交わりをもっており「朝の祈りの時をもたなければ僕は仕事が出来ない」と言ったそうだ。この終末時代、あまり奉仕奉仕と多忙に追われていくうちに、最も大切な朝の祈りを失わないようにしなければならない。

2、
ディボーションを持たねばならぬ理由

1)霊的面から
a. 神を第一として生きるために。
 私たちの生涯はよく、神第一、家庭第二、教会第三、社会第四と言われている。神を第一とするならば、朝目が覚めて他の何をするよりも「神様、おはようございます」と、神様に跪づく事から始まるのが当たり前ではなかろうか。うっかりすると食事に気が回って、腹第一になって神を忘れたりしないだろうか。
b .愛をもって神に信頼して生きるために。
 私達は朝ごとに神を信頼して生きねばならぬ。「信仰によって生活する」ために、朝ごとに祈りをもって神ご自身を生命の源としてスタートしなければならない。
c. 神なくしては何もなし得ないから。
 神様の助けなくしては何一つ出来ないのが真のクリスチャンである(ヨハネ15:5)。従って、キリストが私の義であり、聖きであり、力であり、平和であり、喜びであり、知恵であり、全ての全てである。とするならば、朝ごとに神の前に出て、今日一日私に代わって生きて下さるように、私の人生そのものとなって頂くために、朝の祈りは一日の勝敗を決する鍵であるとも言える。
d. 神は祈りに応えて下さるから。

 神様は私の祈りに応えて下さるお方である事を毎日体験するためにも、一日の初めの祈りは極めて大切である。関取が土俵に登り、勝敗は最初の出足だという。立ち上がった時に、ほんの数秒間に勝利が決まるという。私達も一日の立ち上がりに、神との交わりによって勝利をとるようにしたいのもだ。
2)時間的、環境的角度から
a. 神のために費やすのに、最善の時だから。
 一日中働き、肉体を使い果たした午後や夕方の時間を祈りに費やすよりも、新鮮な一日の初めの時間を神との交わりに費やす事は賢明である。そこに朝の露が垂れこぼれてきて、それこそフレッシュな時間である。
b. 一日の計画のために、最善の時だから。
 朝は一日の計画を立てるために、他のいかなる時間よりも最もふさわしい時間だ。祈りなしに無計画な出発をするならば、徹底した仕事は出来ないし、能率は上がらない。祈りをもって一日の計画がきちんと整えられていく生活は、どんなに複雑で、綿密であっても狂わない。
c. 頭脳・肉体・精神上最善の時だから。
 私たちの頭脳も肉体も精神も、朝の時間は神との交わりに整えられた一番良い状態にある。この時間を神との交わりに持っていく事は、何と幸いであろうか。この習慣を継続したいものである。

3、ディボーションの実

 ディボーションを継続する事によって、多くの恵みと祝福を与えて頂くのが、神の子ども、主の弟子の特権であろう。
1)心の平安と喜びがある。
 神との交わりなしに一日を過ごすなら、終日イライラしたり、思うように仕事が進まなかったりする。また、思わぬ失敗をする事がある。しかし、神との交わりをもって一日をスタートするなら、心の平安と喜びがある。
2)肉体的にも健康で生き生きする。
 神との交わりは霊的面のみならず、肉体的にも確かに健康を保たれ、若々しく、楽しい毎日が過ごせるものである。勿論、病気をしたから祝福を失ったというのではない。病気を通して、健康な時には体験出来なかった深い恵みを受ける事も事実だ。要は、健康な時も病気の時も、ディボーションは祝福の源泉である。
3)経済的にも神が保証して下さる。
 ヨハネは、霊的、健康的、経済的に三重の祝福を神に祈っている(3.ヨハネ2)。私達も主の弟子として、ディボーションに生きる者としての証しを立てる者でありたい。全ての祝福はここから始まるのである。ハレルヤ!


キングダム2003.9月号より