第27回 古くて新しい主題を啓蒙しよう - その3
       < 結 婚 の 重 大 >
日本アッセンブリー教団 八王子キリスト教会協力牧師(前主任牧師)
上原和雄  

 いま家庭に愛がないために世の中がひどく混乱している。
 先日、信州の生家を片付けていたら、戦前の婦人雑誌の別冊付録で「夫婦の和合法」とかいう小冊子が出てきた。読んでみるとなかなか良いことが書いてあった。幸福の科学などの新興宗教が実際生活を分かりやすく指導した出版物を夥しく出しているわりに、キリスト教は少ないように思う。クリスチャンはキリストの愛を模範にして聖書に導かれているから、とくに「夫婦の和合法」など学ぶ必要がないのだろうか。
 聖書をよく知っているキャリアのクリスチャンでも夫婦の愛に波風が立っている例がある。それは悲しいことだが現実である。嫁姑問題になると、クリスチャンであってもさらに難関である。実際生活になると、私たちはごく簡単なことでも案外分かっていないのではないだろうか。
 新生したクリスチャンが何故?といいたくなる現実があるのだ。だから、私は声を大にして「結婚の重大」を叫びたいのである。家庭がほんとうに愛のホームになるために、クリスチャンだからこそ結婚についてしっかり学ぶことが必要である。
   
結婚は重大
 すべての人は結婚を重んずべきである。 (ヘブル13・4)
 これは、若い人に向かって、軽々しく結婚しないようにと戒めるだけでなく、すでにすばらしい相手と正しい結婚をしたとしても、その後愛し合っているかどうか、毎日心せよ、という警告である。愛のない家庭を築いたらどうなるかについて、私たちはどれだけの危機感を持っているだろうか。どうも危機感が薄いように思う。
   当然病の危険
 愛し合って結婚したのだから、愛してもらって当然、仕えてくれて当然、という具合に、自分たちの結婚が何の努力をしなくても、順風満帆に幸せなものになる、と慢然と考えている人が意外にも大多数なのではないか。これを「当然病」というのだそうだ。

聖書の人間観
 私がクリスチャンになって理解したことのひとつは、聖書の人間観は人間を非常に低いところにおいている、ということであった。すべての人は罪の中にあり(ローマ3・23)欲望と利己心の塊なのである。なにしろみんな罪人で、決して立派なものじゃない。そして神は人間の愛を信用しておられない。だからこそ主の十字架が必要なのだ。
 人間の愛はエロスの愛(自己愛)で、神の愛であるアガペからはほど遠く、結婚とは利己的な愛から真の愛アガペに向かってのたゆみない愛の成長過程として神に定められたものなのである。神は私たちひとりひとりを、結婚という営みを通して、人を愛する人間にさせようとしておられるのである。
 夢見るようなロマンチックな求愛時代の経験があっても、それはそれで良い思い出とはなるけれども、二人の結婚が幸せなものになるかどうかには何の関係もない。一昔前の流行語だが「成田離婚」を考えればよく分かる。せいぜい一週間足らずの新婚旅行に海外に出かけただけで、一週間前には「世界一好きだった愛する人」が何故突然「嫌いな人」になるのだろうか。まさに謎である。しかしこの謎は、人間の感情は信用できないと言う前提に立つならば簡単に解けるのである。

努力の必要
 ひとたび結婚したならば、性格が合わないというのは離婚理由にはならないというのが聖書の標準であり、この標準は正しい。(今の世の中は、いやになったら自由に離婚したらいい、そして自由に再婚したらいいと考える人が増えているが、ここではその考えは論外とする。)
 ひとたび結婚の約束をした以上、違った性格をどう調整して折り合いをつけるか、男の思考の世界と女性の感性をどう受け入れ合うか、多忙な時代に心の病気にならぬように夫婦のコミュニケーションをどうやっていくか、などと様々の努力が必要になる。努力といっても肩の張るようながんばる努力ではなく、毎日の小さな心配り、思いやりなど、夫婦の愛をしおれさせない努力を指す。
 要するに、夫婦は自然に愛し合うようには決してならない。自然になることで確かなことは、夫婦は互いに古びていくことと、絶えずこの世俗からサタン的な誘惑がやってくることである。だから老いてなお新鮮な愛の夫婦関係というものは毎日の小さな心がけの積み重ねの結果なのである。
 多くの夫婦がこれらの努力を怠った結果は老年になって明らかとなる。心がコンクリートのように硬化して、会話の楽しみもなく「ただ我慢しているだけの形ばかりの夫婦関係になり果てるのはなんと悲しいことだろうか。

定年離婚増加の最大原因
 定年離婚が増え、私の身辺にもそういう人がいる。彼は定年退職の日に妻から三くだり半を突きつけられた時、妻の冗談だと思ったという。定年離婚を経験した男性の大半はそうである。それが事実であると知ったときの驚愕ぶりは相当なものである。
 「一体なにが不満でそんな馬鹿なことを言うか。わしは浮気一つせずまじめに働いてきた。給料もそっくりおまえに渡してきたではないか。」
 これが不思議なほどに日本男性の決まり文句である。しかし、ここに大問題があったと思うのである。これはこれで大切なことであるけれども、やはりこれは男性側の「自分なりの愛」ではないか。「自分なりの愛」はいくら弁解しても所詮利己的な愛の域を出ていないのである。自分の立場だけの愛なのだから。
 幸せな結婚においては相手がなにを求めているかを感じ取る能力が求められる。「愛は自分の利益を求めず」(气Rリント13・5)とある。相手の利益を考えてあげるのが愛であると、聖書から実践的に教えられた時、私たち日本男性の大半の者は納得し、反省せざるを得ない。
「私の中に妻を愛する愛があっただろうか」と定年になってからではもう取り返しがつかないのである。
 夫の定年まで我慢する妻が多い。抗議もせずに生涯我慢する妻にも問題があるが、我慢し抜いた妻の側の訴えを聞いてみると、これまた決まり文句のように、夫は私と会話をしませんでした。私が悩んでいた時、聞いてくれませんでした。子どもの病気や進学の時にも私の苦しみを聞いてくれませんでした。忙しいことはわかりますが。」これが妻の側からの愛の不在証明なのである。
 男性にはだいたい自信家が多い。けれども、自信を持ちすぎることは自己義に通じるので大変危険な事になる。結婚の重大を認識し、結婚について正しく学ぶことが何歳になっても必要なのではないだろうか。

終わりに
 最後に、幸福な結婚についてのギリシアの賢人であり哲学者であったアリストテレスの味わい深いことばを記して結論としたい。
「幸福は神与(天与)のものでも、運や偶然でもなくて、学習や行為の習慣化または心遣いによって得られる」 アリストテレス「ニコマコス倫理学」より


キングダム2004年1月号より