第31回 古くて新しい主題を啓蒙しよう その「
    「結婚は契約」
日本アッセンブリー教団八王子キリスト教会牧師  上原和雄  

   結婚制度の危機

 隣町に住む私の叔母の話であるが、近所の知合いの娘さん(結婚して一年)がいったという。
「結婚式なんかしないで結婚して、駄目だったら別れたらいい。今はそういうのがはやっているのよ」 笑いごとではすまされない。私の身辺にも結婚式をしないで入籍し、子供もある人が二、三件ある。
 二十年ほど前になるが、古くからの私どもの壮年教会員の大学生の息子が親の知らない間に都内のアパートに彼女と同棲し、入籍していた例があった。熱心な会員であった父親が青くなって牧師館にかけ込んで来た日のことを思い出す。
 「先生、何とか息子たちを諫めてください。今からでも式を挙げるように」
 「それはお父さんの仕事ですよ」
 「いや、先生の言うことなら聞くと思います。何とかお願いします」
 息子は高校までは別のある教会に通っていた。
 息子さんと彼女が私に会ってもいいというので牧師館で会うことになった。
 「親に相談しないで結婚しちゃったそうだねえ」
 「別に問題ないと思います」
 「そうかねえ」
彼が話すのによれば、「民法では両性の合意があれば結婚できるのです」というのだ。 彼は滔々と法律論や人権論まで展開し、さらに「親のすね囓りで何百万も浪費する結婚式は無駄です」と言い放った。
 私は長い間黙って聞いていたが、開き直って私の言い分も聞いてもらった。
 「法律というのはねえ、幸せになる条件というよりは人と人が争わないようにするための条件に過ぎないんだよ。法律に違反しないことなら何でも正しいかというと、そうじゃない。たとえばウソをつくことや不倫なども法律でいつも犯罪になるとは限らないけれど、正しくないのだ。正しくないことは災いの元になるのだよ」
 私はさらに、両性の合意は結婚できるための最低の必要条件であって決して充分条件ではないことを話し、幸せな結婚のための充分条件は二人の合意だけじゃなく彼らを愛している両親や友人からも祝福されることだよ、というようなことを話したのであった。どれだけ分かってもらえたかは分からない。それが証拠に、彼はついに結婚式をしなかった。
  
   結婚は契約である

 いまの時代、結婚式の意味が世の中の多くの人たちに見えなくなっているのではないだろうか。結婚式は古来三々九度の誓いをすることであったのに、いつの間にか商業主義にあおられて贅沢な披露宴が結婚式を意味するようになってしまった。
 結婚式の本来の意味は、結婚が契約であることの確認である。洋の東西を問わない。
 永遠の真理の言葉である聖書には、最初の人間アダムに助け手としてエバという伴侶が与えられたことが書かれている。しかし、主なる神ははじめにアダムのところへすべての鳥と獣とを連れてきて、それぞれに名前をつけさせたのであった。いったい何のために?
 それは彼がこれらをよく観察しどの動物が彼の伴侶としてふさわしいか見るためだった。
「しかし彼にはふさわしい助け手が見つからなかった」(創世記二章二十節)とある。
 こうして神はアダムのあばら骨から一人の女をつくり、彼のところへ連れてこられた。 彼は目覚めた時、その前に忽然と姿を現した生き物に見とれて叫び声をあげた。
「これこそ私の骨の骨、肉の肉だ、・・・」
  
    神が合わせたもの

 私はここをはじめて読んだ時の感動を忘れることができない。それは、アダムは自分の伴侶をはじめは自分の目で探したのだが、本命たる伴侶エバは自分で探したものでもなく、自分で選んだものでもないということである。彼は自分の欲目や自分の基準で選ぼうとしたが、さぞかし迷いに迷ったことだろう。そして疲れてギブアップして、倒れて眠ったのだ(と私は思う)。そして最後に神ご自身が本命たる伴侶を連れて来られたたのである。
 私たちは伴侶を自分で選んだと思っている。
しかし、そこに至るまでに幾多の神の配慮と導きがあり、やはり、神が彼女をそこに連れて来られるのであり、私たちの配偶者は「神が合わせ給うた人」なのである。そのことを信じるようにという神の見事な教えである。
 結婚が契約であることの聖書的根拠は何かといえば、「神が合わせ給うたもの」という一点につきるであろう。
 「神が合わせたものを人は離してはならない」(マタイ十九章六節)
 「好き」が一緒になる理由ならば、嫌いになれば別れることになる。そうではなく、神が結び合わせたものだから離してはならない。
 神の前で契約させられた者だから契約を履行しなければならない。その契約は死が二人を裂くときまで守らねばならない、となる。
 好きになり愛し合うことはすばらしい。しかしそれが、二人の結婚を幸せなものにする保証にはならない。愛し合って結婚しても自然にうまくいくということにはならない。それは以前にはやった成田離婚という現象、さらに最近の離婚統計が示している。自然にはうまくいかないからその事を先刻ご承知の神様が、神の前で「契約させ」、「努力させる」のである。自然に愛し合えるのならば契約の必要はないではないか。
 しかし今日、結婚が契約であるという、その簡単なことを若い人に理解してもらうことがなんと困難な仕事であろうか。
  
    結婚教育の緊急性と重要性

 いままでの我が国における結婚教育は、公教育の場でも家庭でも、いな教会においてすら、タテマエだけを教える教育だったように思う。キリスト教倫理にしてもしかりだった。
 現実には結婚をめぐって様々の苦しみが今の社会には溢れており、効果的な救済の学びの必要性が著しく増してきている。ファミリー・フォーカスの働きとか、良い出版物の発刊などキリスト教会も動き出し、最近漸く注目され始めたことは嬉しいことである。
 端的に言えば、キリスト教の中にこそ、人間の弱さと罪性を徹底的に認識する深い人間理解の培土があるのだから、結婚の学びについて通りいっぺんの理想論でなく、失敗しないための学びや、崩壊から立ち上がるための学びなど、従来より踏み込んだ実践的な学びができなくてはいけないと思われる。
 ところが、奇妙なことに、こんなにも重大な結婚について多くの人は学ぼうとせず、それでいて自分はわかっていると考えている。自分の結婚がうまくいかないという考えは、楽しくあるべくバラ色の結婚に馴染まない話なのである。輝かしいウェディングマーチが間もなく悲惨なエレジーに変わるなどと誰も考えたくないのだ。
 ある有名なホテルの結婚式に司式者として傭われた牧師が、「神が合わせたものを離してはならない」と語り、成田離婚を引き合いに出して励ましの奨励をしたとき、ホテルから苦情が来た。「離婚という言葉をめでたい席で語らないでいただきたい」
 ここに結婚教育の難しさが象徴的に示されている。しかし私たちはひるんではならないのである。


キングダム2004年3月号より