第47回  「リバイバルの発火点」
福島第一聖書バプテスト教会 

牧師 佐藤彰
 

アメリカから宣教師がやって来た

 私は25歳になると、すぐ現在の福島県浜通りに建てられた福島第一聖書バプテスト教会に派遣されました。神学校を卒業して、十日後に結婚、さらにその十日後の赴任でしたから、伝道牧会の右も左もわからず、ただうろたえ、戸惑いながら、何とか日一日をこなそうとする生活でしたが、しかし、ある時ふと、どうしてこの地に教会が建ったのだろうと、過去の歴史を調べ始めました。するとその昔、太平洋戦争直後、アメリカから私と同じ25歳の宣教師が遣わされて、この地に降り立ったことを知りました。
 その宣教師は奥様を日本で亡くされ、以後、数々の労苦と忍耐の中で、決してあきらめず、この土地を愛し、尊い働きを継続し、日本宣教を全うされた結果であることを知ったのです。
 随分後に、私たちの教会から14人で、定年を迎え、引退され、祖国に戻られたその宣教師を訪ねる旅をしました。私たちは賛美し、感謝を申し述べ、その宣教師をその教会が派遣してくださった結果、現在の私たちが救いの恵みに預かったことを証ししたのです。東の国の博士たちの来訪のようだと受けとめられました。
 けれども、その直後、日本からの訪問を歓迎し、夕食会を開催してくださった時のことです。歓迎はありがたかったのですが、食事は油料理で、量も多く、アメリカの食事に少し飽きてきた私たちは、思わず「日本食が食べたい。やっぱりお茶漬けがいい」等々とつぶやいてしまったのです。
 その時でした。既にご高齢になられたその宣教師が、戦後すぐ船に揺られ、吐き気をもよおしながら、当時はるばる日本国の未伝道地を探しながら、東北の田舎町に降り立った頃の思い出話をされたのです。初めて田舎の旅館に泊まった時のことです。朝食会場にはお膳にごはんと味噌汁と大根の漬物、さらには生卵。この組み合わせでどのようにして食するのかと、戸惑っていると、お隣のお客さんが正座し、生卵にしょうゆをかけ、ご飯とかき混ぜながら、のどに流し込むように食する様子を見て、本当に驚いたという話でした。
 戦後すぐの日本人は、肉などほとんど食べなかったようですが、その宣教師ご夫妻はまれに肉屋に足を運び、かたくて値段の高い、決しておいしいとは言えない肉を購入してはナイフとフォークを取り出し、遠い祖国をしのぶような思いで食事をしつつ、伝道にいそしんだと打ち明けられたのです。私たちは一口に、宣教師が海を越えてやってきたと言いますが、何と重い生涯をかけた宣教の現実でしょうか。
 その結果、今ここに教会がある。その尊い宣教のバトンを今、私たちは受け継いでいる。そう思うと、現在直面している目前の壁やら苦しみとかは、さしたる大事ではないようにも思えてきます。

地に眠る遺産の数々

 それゆえでしょうか、私が25歳で牧師になってほどなく、スケジュール調整がうまくいかず、毎週土曜日は決まって徹夜の説教準備に追われました。心に焦りを覚えながら、真夜中に外に飛び出て祈ろうとすると、そこは田舎のことですから、満天の星が美しく輝いていました。天を仰ぎながら歩きつつ、祈っていると、突如何の根拠もなく胸が躍り、熱くなったことを覚えております。「この土地は神様のまなざしが注がれている土地だ。この教会は神様に愛されている。これからきっとすばらしいことが起こる」と、一人確信して幾度感動したことでしょう。
 その昔、宣教師が奥様を亡くし、遠く故郷をしのびながら生涯を献げられた結果、建て上げられた教会。その後も一人の牧師先生が、25歳から55歳までの30年間を貧しい中で苦悶しつつ、教会づくりのためのバトンを受け継ぎ、労されました。教会に残されている集会記録によれば、時には礼拝も成立しなかったり、時には野草を摘みに出かけたりしながらの牧会伝道であられたようです。そのころおられた教会員の思い出によれば、その子どもさんたちも、時には昼食をとることができずにいた時期もあったようです。私が赴任したころ拝見した旧牧師館は、ほとんど屋根裏と言ってよいような部屋で、よくぞここで30年近く住まわれ、子育てをし、牧会されたものだと、心に迫るものがありました。
 空にはきら星、そして教会の過去には一つ一つの重い歴史の数々。きっと主はそれらの過去に積み上げられた霊的遺産にお応えくださるという形で、これからも御業の数々を現わしてくださるに違いありません。その当時は報われなかったであろう数多くの大地に眠る涙や祈りの数々よ、主の顕現の呼び水となって、地の底よりよみがえれ。かつてステパノの殉教死に応答する形でアンテオケ教会が誕生し、歴史の表舞台に登場し、大リバイバルが起こり、ついにはヨーロッパ全土に次々と教会が誕生していったように。


キングダム2006年7月号より