メッセージ


聖書箇所 感謝を捧げる者
ルカ17章11〜16節、詩篇103篇1〜5節
11月17日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「感謝を捧げる者」
 イエス様は弟子達と旅をしながら病人を癒し、奇跡を行い、悪霊を追い出して町や村で神様の言葉を伝えて旅をしていました。この場面はそんなイエス様がエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られたときの出来事です。ここに10人のらい病人がでてきます。らい病はこの当時、汚れた病として認識されていました。ですから、らい病にかかった人は皆宿営の外に住まなければならず、人に近づく事も許されませんでした。そしてその病が治った場合には、その証拠に祭司のところに行って「自分はもうきよくなりました。」と見せて捧げものをするという決まりになっていました。
 彼らはイエス様の姿が見えた時、遠くからイエス様を呼びました。「イエス様、先生。どうぞあわれんでください。」イエス様は10人のらい病人を憐れみ、癒そうと思って彼らに答えてくださいました。この時イエス様はただ「自分を祭司に見せなさい」とだけ言われました。人間的な視点から見れば素直に従うことは難しい状況です。しかし彼らはこの時、主により頼みイエス様の言葉に従うことを選んだのです。その結果「彼らは行く途中で癒された。」とあります。祭司の所につく前にイエス様は10人のらい病人を癒してくださいました。私たちが神の言葉に対して状況を見てまた理性で考えて行動できない。というような状態でも御言葉をとおして神様が語っておられる事に従う決心をするなら神様はその信仰に応え、事を成してくださるのです。
 しかし癒された後、引き返して来てイエス様にお礼を言ったのは10人中、1人だけでした。この1人のサマリヤ人は、癒された自分の身体を見て驚いて喜んだだけではなくそれと同時にこれはイエス様が成してくださった、神の奇跡だという事を忘れなかったのです。長い間の苦しみもだえ続けた病が驚くほど綺麗に癒された身体を見て、これは主の御業であり主が成してくださった。と悟ったのです。そして急いで来た道を引き返しイエス様に感謝をして、礼拝しています。この人はイエス様に従ったから感謝できたわけではなく10人全員がイエス様の言葉に従い、そして奇跡を体験しました。けれどもその中で神様に感謝することを忘れなかったのが1人だけであった、という事です。
 私たちはどうでしょうか。神様は目には見えませんが、常に私たちと共におられます。このらい病人を癒してくださったのと同じように、もしくはそれ以上のものを持って、私たちを愛し、私たちの日常の中であらゆる事を成してくださっているのです。
 詩篇の103篇にはイエス様の十字架の事が書いてあります。神様がわたしたちにしてくださった一番の大きな出来事は、十字架による罪の赦しです。罪深い私たちが本来受けるべきだった裁きをイエス様が変わりに受けてくださいました。ひとつも罪を犯すことがなかった聖いイエス様が代わりに死刑になってくださったのです。そして3日後に復活されました。更に「あなたのすべての病を癒し、私たちの一生を良いもので満たす。」とも書いてあります。神様は私たちの病も癒してくださいます。身体の病気だけではなく心をも満たし癒してくださいます。全ての問題に解決を与えてくださって、恵みと優しい憐れみで私たちを包んでくださるお方です。そしてそれが神様の御心なのです。「・・・主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」私たちの周りには神様が日々与えてくださっている良いもの、主がしてくださった良い事が数え切れないほどに溢れています。それを思うと私たちが神様に対する感謝というものは尽きる事がありません。
 日々の些細なことの中で、そこに働く神様の愛に気づいて感謝することができるように。もっと敏感な心が与えられて、自分の口から出る言葉が感謝で満ちるように求めましょう。神様への感謝を忘れなかった1人のサマリヤ人のように感謝を捧げる者へと変えられてゆきたいと思います。
祝福をお祈り致します。