メッセージ


聖書箇所 1テサロニケ5:16−18  ピリピ3章1節
新しい一年、尽きる事のない喜びを信仰によって勝ち取る者となろう。
01月01日(水)
メッセージ

大久保旨子
説教題:元旦礼拝 「尽きぬ喜び」

 今日は元旦礼拝です。開いたメインの聖句は、千葉教会の壁にも大きく掲げられている御言葉です。喜び、祈り、感謝というものは信仰の歩みにおいて絶対になくてはならないものです。喜びがあること、感謝に溢れている事、耐える事の無い祈りは、クリスチャン生活を定義する品性でもあります。クリスチャンであるならば誰でも一度は、いつも喜びに満たされていたい。どんな時でも感謝できるようになりたい、もっと祈れるようになりたいと願うのではないでしょうか。
 新しい一年、喜び、感謝、祈りに満ち溢れた歩みを送ろうではありませんか。今日はこれからその最初の喜びというものをご一緒に見てみましょう。
 「いつも喜んでいなさい」。喜びとは、そもそも何なのでしょうか。多くの人は、大切な人に囲まれ、物質的にも経済的にも満たされていれば幸福である幸せだと考えます。本当にそうでしょうか。喜びとは苦しみのない世界のことなのでしょうか。先月、聖歌「安けさは川のごとく」の作詞者スパフォードを紹介しました。彼は、次から次へと災難に襲われ財産も失い、大事な息子を病気で亡くし、残された娘たちも事故で亡くしてしまいます。彼を襲う恐ろしい苦しみの中にあって、それでも彼は心の安らぎを得ました。その奇跡は神様からきたものでした。
 パウロは(コロサイ1:24)でこのように語っています。「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」スパフォードの賛美を通して表されている証、そしてパウロの言葉にもあるように喜びは、実は苦しみの中でも持てるものなのです。パウロが更にこう言います。ローマ5:3「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。」
 2コリント6:10 「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何を持たないようでも、すべてのものを持っています。」クリスチャンでなければ、パウロの言葉の意味を納得できる人がいるでしょうか。この心情を理解する事すら難しいかもしれません。そして、パウロだけではありません。ヤコブも(ヤコブ1:2)ペテロも(1ペテロ4:13)同じ事を言っています。
 ですからこのように聖書が語る喜びというものは、決して苦しみ悲しみが全くない状態を表す言葉ではなくて、苦しみや悲しみ、困難の中にあっても獲得することのできる「心の態度」ではないでしょうか。
 ではこの喜びはどこから来るでしょう。大切な人の愛も物質的な必要も健康も、安定しているように見える生活も、それらの幸福は一時的で永久には保つ事のできないものです。しかし、喜びはそれらの幸福とは違います。喜びは本当の幸福であり、神様から与えられる贈り物なのです。
 喜びは、私たちが頑張って生み出すものではなく、私たちが自分の無力さに直面し、ただ神様を見上げる時に神様から与えられるものです。ですから、その喜びというものは神様と私たちとの関係の中に生まれるのです。それは目に見えることに頼らない確かなものです。だからこそ苦しみの中でも、住んでいる世界が崩れて行っていても、思うようにいかなくても、そのような中にあっても喜びを経験する事ができるのです。
 喜びを持っている人というのはキリストを持っている人です。つまり、喜びの土台は、キリストと繋がっているという事です。
 イエス様はこう言われました。「わたしがこれらの事をあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)
 2014年、キリストに繋がり続け、尽きることのない喜びでいつも満たされている者となりましょう。
祝福をお祈りいたします。