メッセージ


聖書箇所
Tテサロニケ5章16〜18節 ルカ18章1〜8節
01月05日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「絶えぬ祈り」
 ポイント*神様から来る希望を握り、信仰をもって祈り続ける者となろう。

 今日は前回の続きで「祈り」についてご一緒にみてゆきたいと思います。祈ることは神様の御心であり神様が私たちに願っておられる事です。また、私たちが絶えず祈りを捧げる事はいつも神様と会話をするということでもあります。
 ルカの福音書では、一人のやもめが出てきます彼女は裁判を開いてもらい、相手を正しく裁いて欲しいと願っていました。しかし、裁判官はそれに応じることはせず聞く耳を持ちませんでした。そのような理不尽な態度にもめげることなく、やもめが頼み続けた時にとうとう裁判官はやもめの願いどおり裁判をすることにしたのです。
 1節を見ると分かるように、これはイエス様がされたたとえ話です。そしてこのたとえ話の目的は、私たちが「いつも祈る為」であり祈ることにおいて「失望してはならない」ということを教える為だとあります。
 つまり一見望みの無いように見えて、祈ること自体に疲れてしまう事があっても、あくまで祈り続けることを神様は励ましておられるのです。また、Tテサロニケの箇所では神様は私たちに「絶えず祈りなさい」と語っています。しかし多くの場合私たちにとって「絶えず祈る」ということは大変なことです。確かな見通しも無いのに何かを継続していくというのは簡単なことではありません。
 私は千葉教会に来る時に私は不安に思っていました。「本当に、週に3回の説教を語り続けることができるんだろうか」と。しかし、千葉教会に来て9か月が過ぎて、未熟ながらに新しい年を迎えることができています。今も未熟な者ですがここで振り返ってみて、不十分なりにも「継続する」ということで見えてきた発見や恵みがあることを実感しています。それは農作物を育てる事にも似ているかもしれません。
 いずれにしても、継続してゆくことは難しい事ですが、出来た先にあるのは大きな変化、または大きな祝福ではないかと思います。
 この聖書箇所にでてくるやもめはまさに願い続け、祈りの継続によって道が開かれてゆきました。ではどうして彼女は諦めることなく、裁判官が裁判をひらくことを求め続けることができたのでしょうか。その心の支えとなったものは何でしょうか。
 一度きりの祈りならだれでも祈ることができるかもしれません。でも「祈り続ける」ためには、一時の感動や気持ちの高揚だけでは継続は難しいものです。本当にしんどい時、心が干からびてしまった時、悲しみに沈んでいたり疲れ切ってしまったり、絶望してしまった人は祈ることすら出来ないということがあります。ここに「祈ること」と「希望を持つこと」の関係があります。
 私たちは深い悲しみや絶望におおわれている時は、祈る力も弱ります。つまり、私たちが絶えず祈るという姿勢を支えるためには「希望」が必要なのです。この諦めることなく頼み続けたやもめの心には、必ず裁判官は私の願いを聞き入れてくれる。という確信にも似た希望がったのではないでしょうか。
 私たちが絶えず祈りを捧げることの中で一番大切なのは、必ず神様なら最善の御心を成してくださる。祈りを聞いてくださる。という神様に対する信頼と、希望を握っているという事ではないでしょうか。神様からくる「希望」。それが私たちの祈りの原動力なのです。

 けれども、人生には、心が渇き、辛すぎて祈れないときもあります。
 心から希望がなくなってしまう時があります。そういうときは、私たちはただ静かに神に思いを向けましょう。「あなたの希望を与えてください」という思いを、神に向けましょう。それだけでもいいのです。これもまた、神様に対する切なる祈りです。
 神様に頼り、一歩一歩歩んでいく。それが信仰生活を「生きる」ということではないでしょうか。神様から希望をいただいて、祈り続ける者となってゆきましょう。

祝福をお祈りいたします。