メッセージ


聖書箇所 ローマ12:1
01月26日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「神にささげる人生」
 今朝は韓国からのアウトリートチームを迎えての主日礼拝です。火曜日から五日間、駅周辺や椿森で教会の近辺にトラクトと配布の奉仕をしてくれました。感謝します。みんなで「ささげる」という言葉を、@証し人として、A献身的礼拝者として、Bキリストに倣う者、という三点から学びましょう。
使徒の働き10章34節35節
 神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。
「復活の証言者」
 神様は私たち全ての人間を受容してくださると書かれています。神様に救いを求めて、追い返される人は一人もいないということです。どの国の人という言いかたで国籍が問題にされているようですが、国籍も文化も、経済や教育の水準も、性別も年齢も一切問われることなく、私たちは神様の愛の世界に入れるのです。 この言葉はペテロによって語られたのですが、ペテロは、その根拠はイエス・キリストがよみがえったからだと40節で言っています。復活して永遠の救い主として働いているキリストが私たちを神様の愛の世界に招き入れてくださるのだと力説しています。
 私たちに与えられた救いの喜びは、神様の御子イエス様がいのちを犠牲にして与えてくださったのです。これを貴重なこととして受け止める必要があります。罪責感からの解放、神様の愛で包まれる平安、未来に備えられている希望、これらの神様の賜物は全ての人に必要で不可欠なものなのです。
 私たちクリスチャンには、キリストの復活と、キリストによる救いとを世界中に広めていく責任があります。使徒たちは、キリストの復活を目撃したと言って、その責任を果たしました。私たちは、復活したキリストによって救われました、と証ししてキリストに自分をささげるものになりましょう。
出エジプト記34章29節
 モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。
「ディボーション」
 エジプトからカナン(約束の土地であり、イスラエルの旧地名)への旅の途中、モーセは神様に呼ばれて石の板二枚をもって、再びシナイ山に上りました。初めの石の板は破損してしまったので造り直すためでした。その板は神様との契約が十箇条に書かれていて、今も十戒と呼ばれているものです。
 その他にも、神様は神の民が生きて行くために守るべき事柄をモーセに事細かく語り、民に教えるように導きました。モーセは神様と深い交わりの時を持ったのです。そのためにモーセの顔は光を発するようになっていました。兄のアロンやその他の人々もモーセに近づくことができないほどでした。
 神様との質の高い交わりによってモーセの中に神様が臨在するようになっていたのです。そのためにモーセの顔は光を放ち、アロンたちから見れば近寄りがたいほどの神々しさか現れていたのです。聖書を読んでお祈りを捧げ、再び聖書を読んで又祈る、このように深く神様と交わることによって私たちは神様から光と力を頂けるのです。
イエス様は私たちに「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)と語り、モーセを用いたように、私たちを神様の光を輝かす神の子クリスチャンとして用いようとしているので す。神様との深い交わりをディボーションと言います。神様はシナイ山にモーセを招いたように、私たちをディボーションに招いています。ディボーションは英和辞書でDevotion=献身(礼拝)とされています。キリストと深く交わることによって自分を神にささげましょう。
エペソ人への手紙5章1節2節 愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
「キリストに倣う者」
 クリスチャンとは、キリストに準じて生きる人のことです。それは神に倣うことであり、キリストを手本にして生きることです。パウロはエペソ教会の信者たちに、イエス・キリストがいのちを犠牲にしてあなた方へ愛を注いだのですから、あなた方も互いに愛し合う人になりなさいと指導しているのです。
 3節から5節までには、性的な罪を犯すことは勿論、そういうことは口にすることもいけませんと語られ、愚かな話や、下品な冗談は避けなさいと厳しく戒めています。下品であることは、キリストに似ていることではないのです。人々と楽しく交わるためには感謝することが最も相応しいということです。
 ドイツ生まれのカトリック司祭であり修道院長も務めたトマス・ア・ケンピスという人物が1400年代に書き著わし、既に600年間も全世界のクリスチャンに読み継がれている「キリストに倣いて」という本があります。私は、その本を40年間手元に置いて読み続けています。
 私たちクリスチャンが生涯最大の目標とすべきことは、キリストに似ている人になるということです。聖書を読み、お祈りをささげて、生きているキリストと触れあうことによって、私たちはキリストに似た人に変えられていきます。大きな目標ですね。自分を神にささげて、キリストに倣う者となりましょう。