メッセージ


聖書箇所 ヨハネ4章23,24節 マルコ12章29,30節
*ポイント*私たちは神を喜ばせる礼拝者として造られた事を覚え、心からの礼拝を捧げる者となろう。
02月02日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「人生の目的〜神の喜びの為に〜」

 神様は私たちを「喜び」の為、そして「礼拝者」として造られました。私達は神様に喜ばれている存在です。エペソの1章5節には「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。赤ちゃんがただそこにいるだけで喜ばれるのと同様に、私たちも神の子どもとして神様からいのちそのもの、存在そのものが喜ばれているのです。まず私たちは神様に喜ばれているということを覚えましょう。

 そして、それと同時に神様は私たちを礼拝者としても造られました。

 今日はこの「礼拝者」ということについて2つに分けて聖書から見てゆきたいと思います。

 まず一つ目は「礼拝は生き方である」という事です。ヨハネ4:23〜24を見ると神様は礼拝者を求めておられることが分かります。本来、礼拝は神様に捧げる為にあるものです。私たちの為ではありません。では、礼拝者となるということはどういうことでしょうか。ある人にとっては日曜日に教会に来ることが礼拝だと考えるかもしれません。またある人にとっては、賛美を歌い、祈り、説教を聞くという一連のプログラムの流れが礼拝だと考えるかもしれません。もちろん、礼拝にはこのようなことも含まれていると思います。しかしこれは礼拝のほんの一部であって、本来、礼拝というものはそれ以上のものです。何故なら、礼拝とは「生き方そのもの」だからです。そうなると教会のプログラムだけではなく、あらゆる部分が礼拝になります。Tコリント10:31を見ると、私達は日常のすべての行為を通して神様の栄光を現わし、神様を礼拝することができる事が分かります。礼拝とは、日常のあらゆるところにおいて神様の存在を認めて、神様の為にそれらの行為を捧げる事なのです。ですから日曜日に教会に来ることだけが礼拝なのではなく、私達は自分の生き方を通して神様を礼拝する必要があるのです。(マルコ12:30)

 もう一つ大事なことは、礼拝は「自分自身を神様に明け渡す」ことでもあります。(ローマ12:1)神様に喜ばれる礼拝とは、自分自身を完全に神様に捧げる事なのです。この捧げるということは別な言い方で表現されることもあります。たとえば、キリストを自分の主とする、自分の十字架を背負う、自分自身に死ぬ、あるいは聖霊に明け渡す、などです。これはつまり私達が、もう自分はイエス様がいなければ何も出来ない。どうすることも出来ない。という自分の小ささと限界に気づくことです。自分の知恵や経験やプライドが神様の前で何てちっぽけだったのかと気が付いて神様に完全に降伏し、完全に信頼することです。

 また聖書でもヨハネの福音書21章で弟子たちが一晩中漁をしましたが一匹も魚がとれなかった時、イエス様の「反対に網を降ろしなさい。」と言う言葉にペテロは従順に従いました。アブラハムは創世記12章で、神様が自分をどこに連れて行かれるのかを知らずに神の導きに従いました。ハンナは長い間子どもが与えられなくて、いつ聞かれるか分からない祈りを、神様を信頼して祈り続けました。マリヤは、イエス様を身ごもる受胎告知を受けた時、どのようにそれが起きるかも良く知らずにその奇跡を信じました。

 これらの人たちはみんな、自分の人生を完全に神様に明け渡して、神様への信頼の元に歩んでいた人たちです。願いや自分自身の都合も捨て、あなたに降伏します。神様に委ねます。従います。ついていきます。というこの姿そのものが神様への礼拝になるのです。

 私たちは神を喜ばせる礼拝者として造られた事を覚え、形式だけの礼拝ではなく生き方やその姿勢を通して、心からの礼拝を捧げる者となってゆきましょう。

祝福をお祈りいたします。