メッセージ


聖書箇所

マタイ26章36〜46節
*ポイント*私達にとって本当の慰め、救いは神様の元にのみあります。神様との深い交わりの中で満たしを受け、全き信頼をもって御心に委ねる者となりましょう。

04月06日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「ゲッセマネの祈り〜孤独の中で主と出会う〜」

 今日読んでいただいた箇所は一般的に「ゲッセマネの祈り」と呼ばれる箇所です。ゲッセマネはオリーブ山にある園の名前です。この日イエス様はこの場所で特別な祈りをなさいました。ゲッセマネの園で祈るイエス様の姿から私たちは多くの事を教えられます。

 まずは「孤独の中で主と出会う」ということです。イエス様はこのとき孤独でした。本来罪を犯した私たちが受けるべきだった父なる神様からの罪に対する怒りと裁きがその一身に下るのです。38節では「悲しみのあまり死ぬほどです。」とまで表現されています。

 ルカの福音書の箇所では、ここで弟子たちに祈っていなさい。と命じ、イエス様は少し進んでひれ伏して祈られました。(39節)イエス様はこの杯を取りのけてくださるよう、過ぎ去らせてくださるように、心の叫びを父なる神様に願ったのです。しかしイエス様は自分の苦しみと願いだけを祈られたのではなく父なる神のみこころがなるように祈りました。するとルカの箇所ではここで御使いが天から降りてきてイエス様を力づけた。とあります。

 その後も何度も祈りに行かれました。うめくように、叫ぶように、嘆くように祈られ、父なる神様にその正直な気持ちを訴えられたイエス様が戻ってきて見たのは寝ている弟子達でした。イエス様はどんなに悲しく、寂しさを覚えられたでしょうか。側で自分の苦しみを共にしてくれる者はいない。その悲しみを理解してくれる人もいない。ただその切なる祈りと願いを聞いてくださったのは、父なる神様だけでした。そしてそんなイエス様に、御使いが天から表れて力づけてくれたのです。

 私たちは、イエス様程の苦しみと悲しみを日常の中で味わうような事はないにしても、私達も問題の大きい小さいに関らず誰にも理解されない悲しみや苦しみの中で孤独を感じる事があるのではないでしょうか。私たちは、誰かの苦しみに多少共感する事は出来たとしても、当の本人が味わっている痛みと全く同じところまでおりてゆくことはできないものです。ですから時に、この世界の中で取り残されたような孤独感と、どこに助けを求めていいのかも分からないような虚しさや悲しみを味わう事があるかもしれません。

 イエス様も孤独でした。しかしそのような孤独の時に向かった先は父なる神様の元でした。イエス様は神様に心を注ぎだし、その心の思いを打ち明けて祈りました。神様にすがり、神様に助けを求められたのです。

 私たちが孤独を感じる時、誰に理解してもらえないような悲しみや苦しみを味わう時に向かうべきところは神様です。人間には限界があり、人間には本当の意味で解決を与える力も人を救う力もありません。神様だけが私達のすべての問題に解決を与える事の出来る方です。私たちは多くの場合、孤独の中で主と出会うのです。

 もう一つ学ぶことは「みこころを願う祈り」です。イエス様の祈りは単なる心のうったえに終わらず、最後には必ず主の御心がなるように求める祈りで締めくくられています。イエス様は正直に心のうちを打ち明けながらも、すべてをご支配しておられすべてを最善へと導かれる神様を信じて、その絶対的主権を神様にゆだねておられました。

 イエス様は良い方です。いつも良い方です。そして私たちに最善を成してくださる方です。それが私たちの願っていた形でないときがあったとしても、神様のみこころである最善がなる事を純真な心で願うなら、神様の大いなる計画の最善が私たちの人生に成され続けるのです。

 私たちは祈りや願いを捧げつつも、最終的には神様の最善である御心がなるようにと、信仰をもって委ねられる者となりたいと思います。
祝福をお祈りいたします。