メッセージ


聖書箇所

エペソ4章29〜32節

08月24日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「赦した者勝ち」

 今日はエペソ書の箇所から「赦し」について見てゆきたいと思います。赦しは私たちの人生において大きなテーマです。誰もが赦すことが難しいという所を通されるからです。しかし、神様は聖書を通して私たちに赦すように命じられています。神様の御心である「赦し」というものを聖書から学んでゆきたいと思います。

@赦しは神様の御心です
 私たちは赦すべきです。何故なら私たち自身がまず、赦された者だからです。マタイ18:21〜34では一人の借金をした人が王の寛大な赦しを受けたのにも関らず、自分に借金がある者には責め立てて赦さず、牢に入れてしまうという姿が例えとして話されています。  私たちは時に、自分が多くの事を赦されている者だという事を忘れ、日常の様々な出来事に怒り、自分の正義を振りかざすようにしてしまうことがあります。そのような時こそ、自分自身がまず神様に赦されたものであることを思い起す必要があります。先に自分自身が赦された者であることを心に留め、赦す者となりましょう。

A赦しは解放です
 私達が赦しを選ぶことは、私達の心にとっても身体にとっても大きな解放に繋がります。社会科学者は今日、「赦すこと」が人々の情緒や肉体の健康につながることを発見しています。赦しの研究者の一人グレン・ハーンデン博士は言います。「赦すということは、心臓疾患、高血圧、癌などの生理的な問題やその他の心身症と関係のある、長引く怒りや激怒、ストレスから人々を解放するのです。」
 他にも癌の末期患者の多くの人が心に赦せない思いを抱いていましたが、赦すことが出来た殆どの患者が倍以上も余命が伸びたという記録もあります。神様は私たちの幸せを願っておられます。赦すことをもって、私達は心も身体も解放されるものでありたいと思います。

B赦しは罪から守られる
赦すということは、私達が神様の前で罪を犯すことから守られるという事です。人を憎む事、裁くこと、恨む事、赦せない思い、これらは神様の前で罪となります。(エペソ4:26)
 ダビデは自分がどんなに苦しめられても、サウル王に自ら手を下すことはしませんでした。相手がどんなに悪くとも、自分自身が神様の前に罪を犯すことがないよう心を探り、そして赦すことを選ぶ時、私達は罪から守られるのです。

C赦しは十字架の愛を体験すること
 Tコリント 13:4〜8には愛がなんであるかが書かれています。最初にある、寛容ということばは、赦して受け入れるという意味があります。ですから赦すという事は、愛であり、愛は赦すことであると言えます。私たちが赦すということを選び取ることは、簡単な事ではありません。深い心の痛みをともない、赦すことには多くの涙を呑むこともあります。しかし、私たちが赦すということで心が痛めば痛むほど、それが難しく苦しい選択であればある程、私達は十字架上のイエス様の愛を少しでも体験することができるのです。(ルカ23:33〜34)
 聖書には「多く赦された者が多く愛する」とあります。イエス様の赦しの愛の深さを知れば知るほどその愛に感動し益々主を愛する者となるのです。十字架の愛に感動し続ける者でありたいと思います。

D赦すことは負けではない
 赦す、ということは負けではありません。寧ろ、自分の心の感情に分かれを告げ、神様に従い、赦しを選び取る。人に自分で裁きを下さず、神様に委ね、自分自身は罪から守られ、イエス様の十字架の愛までも体験することができる。勝利そのものなのです。
 先に赦した者が心解放され、罪から守られ、十字架の愛を深く体験し、そのような恵みの勝利を得る事ができるのです。いつも先に赦すことを選び取ることができるよう、信仰が神様によって引き上げられることを祈り求めましょう。
祝福をお祈りいたします。