メッセージ


聖書箇所

 ローマ5:1-12

7月5日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「神様の愛を知る」
説教要旨:神様の愛が私たちの心に注がれていることを大いに喜び楽しんで暮らして生きましょう。

ローマ人への手紙5章4節5節
 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
「神の愛は注がれている」
 多くの人がそれぞれの人生の中で試練や悩みで苦しみます。そういう試練や苦しみから脱出した人は、自分が受けた苦しみは、神様が自分を人間として成長させるための課題だったのだと理解しています。苦労したおかげで一人前の人間に成り、一人前の人生を全うできたのだと納得できるのです。神を愛する者のためにはすべてのことが働いて益になるとはそういう意味なのです。
 涙を流し、唇をかみしめて、忍耐しなければならないような境遇を通過してイエス・キリストの十字架を見上げるときに、キリストが私たちを愛した愛の大きさを知り、キリストが私たちを愛すために支払った犠牲の大きさを知るわけです。私たちが試練や苦難を乗り越える希望を持つことが出来るのは神様の愛が私たちの心に注がれているからです。
 神様の愛は、イエス・キリストが十字架で私たちが犯した罪を精算するというかたちで私たちに与えられました。罪を赦された結果、私たちは神様の愛を私たちの心で受けとめられるようになったのです。私たちが罪を犯している真っ最中に私たちを愛して、私たちを赦してくださった神様ですから、クリスチャンになった今はその時より一層大きな愛で私たちを包んでいてくださるのです。
 神様から愛されていること、神様の愛が私たちの心に注がれていることを大いに喜び楽しんで暮らして生きましょう。

ヨハネの手紙第一3章16節17節
 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
「愛が分かった」
 私は教会に導かれ、聖書とキリストに出会う前は、愛は自分には関係ない、と思っていました。教会に通うようになってからも、自分がキリストの愛によって救われるのだとは知りませんでした。悪事を働かず、良い行いを積み重ねることによって救われるのだと思っていたのです。
 そう思いながら礼拝を続けていたときに、自分で犠牲を払って久保敷さんという人を訪ねて教会を紹介しようとしました。初めは面会できませんでした。二度目は会うことはできたものの福音は拒否されました。三度目には手土産を持っていき、家の中に入れてもらい、改めて教会を紹介しました。半年後にその人は洗礼を受けることができました。
 他の人の救いのために僅かでしたが自腹を切りました。その時、キリストが私を愛して私を救うために十字架でいのちを捨てるという大きな犠牲を払ってくれたと言うことの意味を少し理解できました。愛の犠牲を払える人に、キリストはご自分の愛の犠牲の意味を味わわせてくださるのだと知りました。
 今私は、イエス・キリストの十字架の死によってもたらされる愛の注ぎを毎朝求めて一日の生活を始めています。キリストの愛が私に生きる力と希望を与えてくれます。キリストから受けた愛を自分の生活の中で他の人と分かち合って生きて行くこと、これこそ礼拝生活であり、信仰生活そのものであると思い感謝しています。神様の愛が私たちの心に注がれていることを大いに喜び楽しんで暮らして生きましょう。