メッセージ


聖書箇所

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。1テモテ1:15

8月2日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「神様の救い」
今週の目標:神様が私たちの生活に解決を与えてくださる御方であることを心に留め て、一週間を元気に生活しましょう。

 救いという聖書用語は、普通の日本語では「解決」という意味です。イエスというお名前は「神は救い」という意味で、イエス様は私たちの悩みを解決してくださる御方という意味になります。「救」という文字は聖書に727回登場します。聖書は神様の救いを人間に伝える本なのです。
 私たちの抱えている悩みの中で、私たち人間の手に負えない最大の問題は「罪」です。罪は誰の心にもあり、人間の生活に最悪の影響を与えます。神様はイエス・キリストによって私たちの罪の問題を解決してくださったのです。今日はヨナ書から神様の救いについて勉強しましょう。

ヨナ書1章14節15節
 そこで彼らは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。
「ヨナの抗命罪」
 神様はヨナにニネベに行って、罪を悔い改めるように叫びなさいと言いつけました。ニネベは今のイラク北部にあった大都市です。ヨナはニネベに悔い改めを告げるとニネベが悔い改めて神様の裁きを免れると感じていました。しかし、ヨナは暴虐に満ちたニネベが救われるのがイヤなのです。滅ぼされてしまえばいいと思っていたのです。
 そのために神様のご命令に反抗してニネベには行かずにタルシシュへ行く船に乗り込んでしまいました。タルシシュは今のスペインです。神様はそれをご覧になっていました。船が出航すると間もなく神様は海に向けて大風を吹き付け、船は難破しそうになりました。水夫や船客たちが誰の罪で船が難破しそうになっているのかくじ引きをした結果ヨナの罪が暴かれました。
 ヨナは自分が神様の命令を聞かないために起こった出来事なので、自分を海に投げ込みなさい、そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょうと言い、水夫たちがヨナをかかえて海に投げ込んだところ、海は激しい怒りをやめて静かになったということです。生ける神様は私たちの背後に立って保護の手をさしのべていてくださるし、罪を犯せば、正してくださる御方です。
 神様や他の人の目を避けて犯した罪も神様の目はすべてお見通しです。私たちは神様をたばかることは絶対にできないのです。罪は必ず露見します。ウソも必ずバレてしまうのです。隠し通すことはできません。罪を犯した人は大きな恥をかきます。ヨナは海の中で大きな魚に飲み込まれてその腹の中で三日三晩反省しなければなりませんでした。

ヨナ書2章8節9節10節
 「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。むなしい偶像に心を留める者は自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」主は、魚に命じヨナを陸地に吐き出させた。
「信仰が戻った」
 ヨナ書2章1節から10節まで、ほぼ全文が魚の腹の中でヨナが祈った言葉です。ヨナが悔い改めたときに神様はヨナを魚の腹から陸地に吐き出させました。祈り出しは、2節の冒頭で「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました」という言葉です。
 私たちも人生が順調なときは、神様の恵を当たり前のことと考えがちです。そして、逆境に陥ったときに改めて神様に救いと憐れみを求めるようになります。神様との関係が毎日首尾一貫しているならばそのようなことにはなりません。毎朝神様への信仰と献身の表明を祈り続けることが肝心なのです。
 むなしい偶像に心を留めとは、ヨナの心の隙をついたサタンの働きによったものです。神様以外のものはすべて偶像になり得るからです。ニネベに行けという神様の命令に従わなかったことをヨナはむなしい行動だったと反省したのです。神様に取って代わるものは何も無いということです。
 ヨナは無条件で神様に対して感謝の礼拝を捧げました。何々をしますので救ってくださいとか、何々を捧げますので憐れんでくださいということは一切言いませんでした。交換条件を出して神様と取引をするようなことは純粋な信仰の中には生じないのです。ヨナの心に神様のみこころに完全に服す信仰が戻ったのです。

ヨナ書3章7節8節9節
 王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
「救う神」
 神様は再びヨナに「ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを告げよ」と命じました。ヨナはニネベに到着すると、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と言ったのです。町の人びとはそれを聞いて神様を信じ、断食を呼びかけ粗末なものを着て悔い改めました。
 町の人々の様子と、ヨナが語ったことが王様に知らされたとき、王様は大臣と共にこの7節から9節のことを発令したのです。神様は王様はじめニネベの人々すべてが悪の道から立ち帰るための努力をしていることを認めて、ニネベに下すと言われた災いを思い直したのです。
 ニネベの人々はヨナの警告を聞いて、まず初めに神様を信じ、次いで、自分たちの犯している罪を悔い改めたのです。それは「断食をし、荒布を着た」という言葉で表されています。私たちの信仰と悔い改めも、言葉だけでなく行動に表れるものでなければならないのです。
 「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Tテモテ 2:4)と記されています。暴虐に満ちていたニネベの町でしたが神様は、ニネベが救われることを願ってヨナを派遣し、神様のことばを伝えさせました。今日も神様は、罪を犯して人生の破滅に落ち込んでいく人たちを救おうとしているのです。

ヨナ書4章10節11節
 主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
「赦す神様」
 ヨナが神様のおことば通りに「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と警告したので、ニネベの人たちは悔い改めました。神様はそれを大きく評価してニネベを滅ぼすことを中止しました。悔い改めて神様に立ち返る人には神様は恵みと祝福を与えてくださるのです。
 ヨナの考えは違っていました。罪深く、暴虐に満ちているニネベは赦すべきではなく、神様の処罰によって絶滅されるべきだと考えていたのです。凶悪犯が赦されて無罪放免になってしまうのでは、神様を信じてまじめに生きているのはばかばかしいと考える人は少なからずいるのだと思います。40日後にはニネベは滅びると言ったヨナの言葉がうそになってしまったこともヨナには不満でした。
 町外れでニネベの町の様子を見ていたヨナに神様はトウゴマという蔓草で日陰を作ってくれました。次の日、神様はそのトウゴマを枯らしたのです。ヨナは日陰が無くなってしまったのでそのトウゴマを惜しんだのです。それで、12万人もの人が住んでいるニネベの町を惜しむ神様の気持ちをヨナに理解させようとしたのです。
 聖書は私たちに「さばいてはいけません。さばかれないためです」と教えています。神様の預言者であるヨナはニネベを裁いていたのですが、神様はヨナを赦してニネベを赦した神様の気持ちを学ばせました。私たちクリスチャンも時として他人の罪を咎め立てるようなことがあるかも知れませんが、神様が罪人を赦すお方であることを心に留めて置きたいと感じました。神様が私たちの生活に解決を与えてくださる御方であることを心に留めて、一週間を元気に生活しましょう。