メッセージ


聖書箇所

ヨハネ3:16-17
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

8月30日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「神による救い」
説教要旨:父と子と聖霊の三位一体の神様が私たちを救ってくださったことを感謝し、この神様に身も心も委ねて生きていきましょう。

ゼカリヤ書9章15節16節
 万軍の主が彼らをかばうので、彼らは石投げを使う者を滅ぼして踏みつけ、彼らの血をぶどう酒のように飲み、鉢のように、祭壇の四隅の角のように、満たされる。その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。
 「神様の宝物」
 主が彼らをかばう、主は、彼らを・・救われる、と言われています。これらの文の主語は「主」です。神様が主体的に神様の民を含めるすべての人に救いを与えるのです。救いに関しては、私たち人間が主体になることはありません。自分で自分を救おうと思っている限り、私たちに救いが訪れることはないのです。
 救われた人は、王様である神様の王冠の宝石になるといわれています。救われた人は神様の宝物なのです。それは、キリストがご自分のいのちと引き替えに神様に献げた者が最大の宝となったということです。私たちは、自分が神様にとっての宝であるということを大いに喜びたいものです。
 救いの確信を握るための努力は怠ってはなりません。その努力の結果、神様が私を救ってくださったのだという確信に至るからです。石投げとは、古代の戦から第一次世界大戦まで使われたカタパルトという城攻め大砲のことです。直径60pもの玉石を数百メートルも飛ばす強力な兵器を使う敵軍に囲まれても、神様が救ってくださるという確信が謳われています。
 罪の力もサタンの力もとてつもなく大きいのですが、神様の力はそれを大きく上回っています。天地を造った力であり、十字架と復活によって死の力に打ち勝った愛の力です。神様が主体的にご自分の持つすべての力を発揮して私を救ってくださるのだ、という信頼の気持ちを持つことが何より大事なことなのです。

コリント人への手紙第二3章7節8節9節
 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
 「御霊の務め」
 パウロは、パリサイ派という特別に立法に厳しいグループに属すユダヤ教徒でした。ユダヤ教の律法は礼拝規定が主な内容ですが、禁止事項を定めた掟でもありました。ユダヤ教の律法はユダヤ教徒に罪責感を植え込む働きをしました。熱心に信仰すればするほど罪に苦しむ仕組みだったのです。ユダヤ教徒としてのパウロは救いを得ることはできませんでした。
 石に刻まれた文字とは、モーセの十戒を指しています。パウロは人を罪に定める律法とそれをユダヤ人に背負わせたモーセに栄光があるとすれば、人の罪を赦して、人を神の子として救う神の御霊の働きにはそれ以上の栄光があるのではないかと語りかけています。事実、パウロは御霊様によって救われ、神様のために生きる人に造り替えられたのです。
 御霊の務めとは、人の心の中に住み、その人を神様を崇め、イエス・キリストを信じる人に仕立てあげるというところにあります。そして、御霊様は、私たちキリストを信じる人に罪の赦しを与え、神の子として生きていく希望と力を授けてくれるのです。パウロは御霊様の働きに十分に信頼するように私たちを促しています。伝道も牧会も全ての働きの実行者は御霊様なのです。
 私たちの御霊様への信頼はお祈りによって表現されます。祈らないということはそれだけで、神様を拒絶し、御霊様の働きを否定する大きな罪に当たるのです。お祈りの中で神様に感謝し、神様を賛美し、御霊様の御働きに期待する私たちの信仰を表明させて頂きましょう。神様は神様に頼る人を助けてくださるのです。