メッセージ


聖書箇所

ヨハネ5章1節〜9節

12月27日(日)
メッセージ

大久保 望信
説教題:「恵みを見つける」
説教要旨:今年一年を振り返って、主の恵みを見つけて感謝しましょう。

 私たちの人生のカーナビは聖書であり、イエス様です。このイエス様から目を離さないでいるなら道に迷うこともありません。しかし、イエス様も見ずに道を走ろうとするならば、途端に自分の居場所がわからなくなったり、どこに向かっているのかもわからなくなってしまいます。私たちは見ているものが違うだけで、その歩みに大きな影響を与えてしまうのです。

 今日の話は、イエス様がユダヤ人の祭りのためにエルサレムに登った時の話です。日本人がお盆にお墓参りに行ったり、正月に実家に帰ったり、お参りしたりとそのような習慣が根付いていますが、ユダヤ人にとって祭りというのは、とても大事習慣の一つです。その祭りをすることによって神様がしてくださった奇跡や、御業を忘れないために行われるためのものです。それでは、1節から5節まで読みます。

 「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。」

 エルサレムにはベテスダと呼ばれる池がありました。そこの池はたまに主の使いが降りてきて池を動かすそうです。そして、動いた池に一番はじめに入った者が、どんな病気でも癒やされたそうです。ですから、自分の病を癒やしてもらおうと、そこには病人から、目の見えない人から、足のなえた人、やせ衰えた人たちも集まり、池が動くのを待っていたということです。そして、そこに38年間病気にかかっている人がいました。彼自身きっと一生この病につき合わなければならないのかもしれないと、考えていたかもしれません。そのような彼に、イエス様が声をかけました。6-7節をお読みします。

 『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」』

 この時にイエス様が明らかにおかしな質問をしています。なぜなら、ベテスダという池の周りいる人であり、なおかつこの男が長い間そこに伏せっていることを知っている相手に良くなりたいか?と聞いているからです。

 良くなりたいことは、分かりきったことです。しかし、イエス様があえてそのように聞いたのはなぜでしょうか。もちろんイエス様はちゃんとした理由があり、実は彼は、病よりももっと深刻で大きな間違いをしてしまっていることを、イエス様は見抜いていました。もう一度、彼の言葉に注目しましょう。

 『病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」』

 「よくなりたいか」という質問に対して、「そうです!私は良くなりたいんです!」と訴えるかと思いきや、願いよりも先に出た言葉は、周りへの不満でした。彼のプロフィールはあまり詳しく書かれていませんが、彼はきっとこの池の噂を聞いて自分の病気も治ると期待していたと思います。しかし、先に入る人がいて自分はいくら待っても入ることが出来ないので、彼はいつしか失望し、不満が心を支配してしまったのではないでしょうか?市役所みたいに整理券があれば問題はないのですが、そんな仕組みはありません。なので、イエス様に聞かれた時も救い主であるイエス様ではなく、周りの人々のことばかり見て不満をぶつけてしまったのです。つまり、本当の彼の問題は、病ではなくどこに目を向けているかです。悪魔はこういうようなスキを利用して私たちを不信仰にさせて、神さまから目を背けようとします。私たちが神さまから目を背けさえすれば、たちどころに弱くなることを悪魔は知っているからです。ですからイエス様は、いつも弟子達に、「私から目を離さないでいなさい」としきりに伝え、聖書の至る所に、神につながることを教えています。私たちは見ているもの、つながっているものに、影響を受けるからです。もし、私達も問題ばかり見ていれば、主が私達をどれほど愛してくださっているのか、私達がどれだけ日々神様から恵みを受けているのかわからなくなってしまうのです。

 銀行の職員は、沢山のお札を数えさせられるそうです。それは、長い時間沢山のお札に触れることによって、偽札が入ってきたときに、すぐ気づくことが出来るように訓練するからだそうです。私たちも神さまをいつも見て、みことばを蓄えることで、悪魔の偽りを見抜くことが出来ます。哀歌3章22-23節にはこのように書かれています。

 『私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」』

 主の恵み、哀れみは尽きること無く、それは朝ごとに新しく注がれていると書かれています。つまずいてしまうような出来事があっても、解決が見えない状況でも、私たちはいつも主から覚えられていて、力強い御手に支えられていると約束しています。

 私達の信仰生活は、砂金集めのようなものです。砂金集めは砂の中にある砂金を黙々と探すわけですが、砂が邪魔で見えなくなっている砂金を見つけるように、私達の日常にも、神様からの恵みは沢山注がれています。しかし、自分の抱える問題に目を奪われすぎてしまうならば、その恵みに気づくことが出来ません。もしも、この男性のように希望を失ってしまうのならば、不満しか出てこないでしょう。イエス様はそのことを教えようとしておられたのではないでしょうか。

 人は生きている間は様々な壁や問題に頭を悩ませるからです。なので、重要なことはどのような状況であっても、見なければいけないお方を見ることであり、希望を与えてくださるお方をみることだということです。そして、イエス様は私たちのそばに寄り添ってくださるお方です。この時もイエス様は、彼の心を知って離れていくことはしませんでした。8-9節を読みます。

 『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」』

 私達が違う方向を見ていたとしても、不満ばかりこぼしているようなものであっても、私達が神様からの愛を見失ったとしても、神様は私達を見失うことはありません。神様から注がれている恵みは今もこれからも日毎に与えられます。
今年、一年を振り返り主の恵みを見つけ感謝していきましょう。