メッセージ


聖書箇所

出エジプト3:11-12

2月21日(日)
メッセージ

大久保 望信
説教題:「何者なのでしょう?」
説教要旨:主の御声を聞き、応答していきましょう。

 さて、今日はモーセを取り上げます。この人物や、出エジプトの出来事は一般で映画化されるほどよく知られている内容です。しかし、今日はそのような大きな神様の計画に用いられる前の話で、モーセがまだ無名だったころどのように神様に選ばれたのかを見ていきます。彼の働きにはよくスポットがあてられていますが、彼が用いられる前もいろいろなことがありました。モーセはイスラエルの民の子供でした。しかし、その頃のエジプトを治めていたパロの命令で、イスラエル人の2歳以下の男の子を川に流して殺すように命じていたので、モーセの母は息子が殺されないように、かごに入れて川に流しました。すると、驚くことにパロの娘たちがそのカゴを拾い、モーセを助け育てることにしました。それからモーセは王宮の王子となり不自由ない生活をしていました。そんな彼が、成長したある日のことです。なんと、自分と同じ民であるイスラエル人がきつい労働の中、鞭を打たれている様子を見、それが耐えられなくなりその兵士を殺してしまいます。モーセはそのことを隠しますが、もう王宮にいるのが怖くなり、逃げ出してしまいました。そこで行きついた先が、ミデヤン人の住む場所でした。そこの、イテロという祭司の所に婿に入り暮らすようになったのです。彼は、王宮で遊んでいた日々から、家畜を飼う仕事へとがらりと変わってしまったのです。今日はそのあとの内容です。

 3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
モーセはもともと王子だったので、宮殿にいて好きなことは何でも出来ただろうし、なんでも召使などにやってもらっていたでしょう。なので、モーセが羊飼いとしてイテロの所で仕えることは簡単なことではなかったと思います。なんでも自分でしなくてはいけないし、エジプトでは嫌われていた家畜の仕事もしなくてはなりませんでした。(創世記46:34) このような環境でヨセフは、今まで持っていた名声や富、華やかな生活から、そんな物はいっさいない、庶民と同じ生活をすることになりました。本人にとっては、「なぜ自分がこんなことをしなければならないのか?」「自分はこれからどうなっていくのか?」など、これから後の心配もしながら、理解できない状況だったかもしれません。しかし、神様の目から見るならば、このモーセの羊飼いとしての日々は大きな意味があったのです。実はこの期間は、後にイスラエルの民が出エジプトする時、彼がリーダーとなっていくために、羊飼いとしての導いていく能力を身に着け、荒野での生き方を学び、傲慢になるのではなく謙虚になっていくために、大きな意味のある時間でした。つまりここでモーセは、強制的に謙虚になる訓練をひそかに神様がしていたことが分かります。
私たちの歩みにも、神様は想像をはるかに超えることをいつも計画しておられます。それは大抵の場合理解できないことが多いです。しかしそれは、私たちが用いやすい形の器となっていけるように、着実に用意をしておられるということです。私たちはそのことを受け取って歩むことが出来るでしょうか?全ての出来事に神様の時があることを信じて、感謝出来ることが私たちクリスチャンの希望なのです。

 さぁ、そのようにして王子という位から、羊飼いという位まで落ち込んだモーセにある転機が訪れます。それは、羊を導くものから、神の民を導く主の働き人への召しです。聖書を見ましょう。3章2-4節です。

 3:2 すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
 3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
 3:4 【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。

モーセが見たものは、燃え尽きることのない柴でした。この柴というのは、アカシヤの木でよく燃える材質のものだと言われています。しかしその柴が燃え尽きなかったので、不思議に思ったモーセは近づいていきます。すると、その柴から主の声が聞こえてきたのです。彼としては、何か不思議なものを見に行こうという好奇心から近づいたのでしょうか、そこで待っていたのは主ご自身でした。彼は相手が誰かも分からず、「自分がここにいる」ということを伝えます。主は続けて言います。5-6節

 3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
 3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
ここで主はモーセに履物を脱ぐように言っていますが、これには深い意味があります。当時の奴隷は靴を履きませんでした。つまり、履物を脱ぐという行為は、相手に対して敬意を表し、服従や、奴隷として仕える意味があります。つまりここでモーセに履物を脱がせたのは、モーセを自分のしもべとされた。ということであり、主がモーセと近い関係を築いてくださっているのです。
 みなさん、ここでモーセが選ばれたのは羊飼いとしての訓練が終わって、神様の時が来たからなのだと思いますが、それにしても選ばれたのは奇跡だと私は思います。後ほど出てきますが、彼には短所がありましたし、それだけではなく、彼には人を殺してしまったという過去があります。たとえ人には隠し通すことが出来たとしても、神様の御前ではすべてが明らかです。どうせ選ぶならもっと別な人がいただろうに、と思ってしまいます。しかし、モーセは選ばれました。
 それは、主の御前で心砕かれ、本当に自分の弱さを知り主にすがる時、主は裁くお方ではなく、赦すお方だということを私たちに伝えるためだと思うのです。ここにイエスキリストの愛が隠されています。イエス様も2000年前にこの地上に来られたのは、自分のことしか考えていない自己中心の私たちの名前を呼び、足の靴を脱がし、罪の奴隷から神様の奴隷へと救い出すためだったのです。まさにこれは奇跡です。

 そして7節です。
 3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。  祈っても状況に変化が見えない時、本当に神様は祈りを聞いているのかと疑う誘惑にかられることがあります。
 イスラエルの民はまさに、その苦しみの中にあったと思います。苦しい労働に主に叫び続けていました。しかし、ここで言われているように、主は民の悩みを見て、彼らの叫びを聞いていて、痛みを知っているとあります。
 神様は漠然とただ存在しているのではありません。今も生きて働く神です。
 使徒17章27-28節にはこのようにあります。
 17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
 17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 私たちの信じる神様は私たちの祈りを聞いてくださるのです。たとえ道が開かれなくても主の最善の時に御業を起こしてくださるお方に希望があります。

 さあ、モーセに主は続けて語りました。10-11節です。
 3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
 3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
 3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 モーセをしもべとし、彼にあのイスラエルの民を脱出へ導くリーダーとして召したのです。そんな大役を任されてしまったモーセは、「私は何者なのでしょう?」と思わず本音が出てしまいました。それくらい彼にとって驚きの出来事であり、そのような役割を自分が出来るとは思えなかったわけです。彼の頭によぎったことはまず、自分のコミュニケーション力が低すぎることです。彼は自ら自分を口下手だと言っているくらい話すことに自信が持てませんでした。二つ目は、本当に自分は誰なのか分からなくなってしまったことです。
 エジプトの王子なのか、また人を殺してしまった罪を抱える逃亡者なのか、また羊飼いなのか、ミデヤンの祭司の婿なのかなどを考えたでしょう。
 もしこれがバスガイドの就職の面接だったらどうでしょうか?観光客を約束の地という名の観光地に導いていく役だとすると、まず履歴書に前科がある時点でかなりの減点です。
 次に、口下手であること。これもガイドにしてみるとかなりの減点ポイントです。
 一般的に見るならば、まず就職は無理でしょう。しかし、そんな彼をイスラエルのリーダーとして神様は選びました。この神様の選びはとても不思議です。
 しかし、このような欠点のある人がリーダーとなったのはモーセばかりではありません。
 あの、偉大な王と歌われたダビデでさえ、情欲にもろい所がありました。偽預言者との対決で、火を降る奇跡を見たエリヤでさえも、一人の女性に命を狙われウツになるほど、恐れ逃げてしまいました。ギデオンも臆病、エリシャは短気で、自分の頭がはげ頭だということで子供にからかわれた時、子供たちを呪ってしまいました。モーセや、そのほかのリーダー達も、最初は自分がそんな主の働きに相応しいと思っていなかったことでしょう。しかし、主は「何者なのでしょう?」という問いに対して、「わたしがあなたと共にいる。」と言いました。
 主はモーセに一人でその働きをするようには命じませんでした。モーセは(主ご自身や、アロン、奇跡など)様々な助けをいただき脱出へと導きました。

 このような主の働きをするのは、旧約の人物だけでしょうか?モーセやその他あらゆる欠点だらけのリーダーたちが用いられたように、私たちにも主が与えてくださる、魂を導く役割があります。それは職場かもしれません。家庭かもしれません。学校かもしれません。近所のスーパーかもしれません。どこかはわかりませんが、ここにいる一人ひとりにしか行けない場所があり、その人にしか届くことの出来ない人がいます。もしかしたらまだモーセの様に自分が何者なのか分からない人もいるかもしれません。欠点が自分を縛っているかもしれません。

 しかし詩編には、私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。詩編103:10とあります。過去に大きな過ちをしたかもしれません。悲しいことや苦しいことがあり、今日まで我慢してきたかもしれません。しかし、イエス様が十字架にかかったのはその重荷を負うためです。イエス様は死にましたが、復活し今も生きておられます。それだけではありません。罪ゆるされた私たちは幸せに生涯を終えるだけではなく、神様に仕えるという特権を与えてくださっています。そんな私たちは神様にどんな応答をしていくことが出来るでしょうか?それぞれ違うでしょう。ある人は身近な人を愛することかも知れません。ある人は伝道することかもしれません。ある人は祈ることかもしれません。それぞれに、それぞれの役割があります。昨日よりも今日、今日よりも明日、主の御声に応答していく者となりましょう。