メッセージ


聖書箇所

ローマ人への手紙3章23節〜31節

4月10日(日)
メッセージ

濱野 好邦
説教題:「義と認められること」
説教要旨:人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるという真理をしっかり身に付けましょう。

使徒の働き17章30節31節
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。
「神様のさばき」
これはギリシヤのアレオパゴスの丘でそこに居合わせた人々にパウロが語った言葉の一部です。「神はお立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため日を決めておられるからです」と31節で明言されています。私たちはキリストが愛の神様であり、天地の造り主、永遠の救い主、そして常に共に生きていてくださる慰め主であると承知しています。しかし、もう一つのさばき主で有るということも決して見過ごしてはいけません。
神様のご性格は愛と義です。私たちは神様が永遠の愛で私たちを愛していてくださることを知り、神様が罪悪を決して見過ごすことのない永遠の義なるお方であることによって救われています。キリストの十字架は神様の永遠の愛と永遠の義を同時に表現したものです。神様の義は罪を決して容認せず、罪を犯して悔い改めない人には必ず処罰を下します。
罪を犯してもどうせイエス様は赦してくださる等といって神様の義を甘く見ているととんでもない結果が来るということです。神様は世界の罪悪をさばくためにキリストを復活させたのだといっています。私たちの心と生活の中にある必ず悔い改めなければならない罪は敵意と憎しみ、うそとごまかしです。これらの罪は神様の愛と義というご性格に反抗するものだからです。
  自分の心の中に神様と人々への愛がないこと、そして、生活の中の様々な部分にごまかしがあることを正直に認めて神様に憐れみを求めて悔い改めることが必要なのです。嘘をつき他の人を欺す人が私はクリスチャンですと言ってはならないのです。パウロはアレオパゴスにいた人たちに、偶像を礼拝するということは復活のさばき主を否定するということに直結するのだと言い切ったのです。
私たちは自分の罪をイエス・キリストによって取り除かれ、さばきを免れる必要があるのです。

ローマ3章28節
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
「義と認められる」
この箇所はローマ人への手紙の中で最も大切な箇所のひとつと考えることができます。前の節で、福音、神の義、神の赦しは「私たちが律法を実行できるかできないか、ということには関係なく、しかも旧約聖書の裏ずけをもって提示され、イエス・キリストを信頼することによって私たちの中に実現するもの」という説明がありました。ここでは、私たちに救いをもたらすための信仰とはどういうものなのかが書かれています。
それらはまず、
1)罪の中に生きている人間の悲惨を認める(神の栄光を受けられなくなっている、とは、内在する罪の支配が強く、本来の人間らしさを発揮できず、神が求めている役割に応えることができていない存在という意味です。)
2)キリストの贖いの業を知る(キリストが十字架にかかってくださったのは、私たちを買い戻す、身代金のような役目を果たすためでした。私たちの身代わりにキリストご自身が身代わりに裁きを受けてくださったのです)
3)神の恵みによる無償のギフトとして受け取る(驚くべきことに、この「キリストの贖いによる救い」は無償です。つまり「ただ。無料」です。)
  パウロは徹底して、人間が神によって義と認められ、神との平和が作られ、神との身内の関係を持てるのは、人間の頑張りによるのではなく、イエス・キリストの犠牲によって成立した「神との和解と平和」を信頼し、感謝して受け取らせて頂けばよいのだと教えています。
  キリストの十字架による贖いも、神との平和も、罪の赦しも、ことごとく、神の恵みによって提供された大きな祝福であり、私たちが頑張って作り上げた救いのシステムではありません。神は御子イエス・キリストの生命と引き換えに、あなたを、そして私を救い出そうと本気で考え、その犠牲を払って救いの道を開いてくださいました。ここに愛があるのです。
神が「最初から最後まで用意し、犠牲を払い、愛を示し、赦しをもたらしてくださった」のです。そのことを「ありがたく受け取らせていただければ、それで新しい人生が始まります。
さらにパウロは、具体的にキリストが何をなさったのかを記しています。
3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」「なだめの供え物」という言葉が使われていることに注意してください。
キリストは父なる神に対して「償い」「弁償」をしてくださったのです。神の怒りをなだめるための供え物になられたのです。それらは自発的であり、キリストは私のため、あなたのために、喜んでまっすぐに「十字架に向かってくださいました」それは、私たちのため、わたしたちのための救いをもたらすためでした。
「主イエスさま、尊い犠牲と愛をありがとうございます。あなたこそ、私の救い主、あなたこそ、わたしの主です」と心から祈れたら、十字架による恵みと祝福が私たちの心に届きます。それが信頼の第一歩だからです。

3:26〜28をもう一度読みましょう、
26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

神は時至って、イエス・キリストを世に遣わし、神の義を示すために、また信頼するものを義と認めるために十字架につけ、本来、私たちが担うべき裁き、呪い、神の怒りをすべてその身に引き受けさせてくださいました。
私たちは、それぞれが神からの栄誉を受けることができない「不義」なる存在であり、神に対する反抗心を持ち、神様嫌いな性格をもって生きてきたのです。
しかし、本来なら、神に打ち捨てられても仕方のないような私たちのためにイエスさまが遣わされ、十字架で身代わりに裁きを引き受けてくださったのです。
  聖書はそれを「愛」と読んでいるのですが、同時に、私たちは神の恵みと愛によって救われるのであって、つまり義と認められるのであって、私たちの行動や行為、修養や慈善によって救われるものではないということをパウロは力説しています。
律法の行いには救いはないのです。イエス・キリストが私の身代わりに神の裁きを受けてくださったことを「信頼し」「イエスさまによって救いの道が開かれた」ことを信頼することで「神の義」が私たちに贈り物として届くのです。
私たちは「律法の行い」「自分の頑張り」「自分の善行」で救われたいという願いをどこかに持っています。
救いを賜物としてではなく、ご褒美として受け取りたい気持ちが存在するのです。実はそれがイエス様からの救いを受けにくくしている最大の理由かもしれません。それはプライドとも呼ばれているものです。イエス様への信仰は「自分は罪人だけれど、あの人より悪くないという、あの人より出来が良いというプライドを捨てる」ことから始まるのかもしれません。

イエス・キリストを信じることによる救い、つまり、義とされる恵みをしっかり受けとめましょう。