メッセージ


聖書箇所

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ4:5

4月17日(日)
メッセージ

濱野 好邦
説教題:「アブラハムの信仰」
説教要旨:信じる者に与えられる神様の恵みを知り、
     信じる者として救いをいただきましょう。

 信じるということは、食べ物を口に入れて歯でかみ砕き、喉から腹へ飲み込んでいくこととよく似ています。食べ物は自分の体に入ってきますが、神様の恵みは私たちの心と生活の中に入ってきて、食べ物と同じように私たちを元気にします。復活したキリストは復活を信じないというトマスという弟子に「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と教えました。何を信じますか。イエス・キリストを信じる者には罪の赦しとたましいの救いという恵みが与えられることを信じるのです。

 ローマ4:1-5
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 パウロはあえてユダヤ人たちにとって「信仰の父」と呼ばれ、尊敬されている偉大な人物アブラハムを登場させ、彼が神に義と認められたのは「彼の行いによったのか」それとも「模範的な行為の前」なのかと尋ねます。もし、良い行いを褒められて義と認められ、救われたのであれば、律法を守り抜いて救われる可能性が出てきます。
しかし、創世記における記録では「「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあるのです。実際、アブラハムは神の約束を曲解した行動を取り、妻サライの勧めもあって奴隷のハガルを妊娠させ、子供を生ませてしまいます。それは神の喜ぶことではありませんでした。ある意味でその結果、13年間、神の沈黙を経験することになります。しかし、そういうアブラハムに対して、神は約束を変えることをせず、神を信頼することしか希望を持てないアブラハムを義と認めるのです。
アブラハムが何か素晴らしいことをしたから義と認められたわけではないということをパウロは力説しています。そうなると、私たちにも大いに希望がでてきます。神への信頼こそが鍵なのです。神様のアブラハムへの祝福は、アブラハムの子孫は天の星のようになり、浜辺の砂のように多くなるという約束でした。アブラハムはその約束を信じたのです。

 ロ−マ4:4-8
 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

 一般論からすれば「善を行ってその報酬として祝福を受ける」とか「働いて報酬を得る」という考えは筋が通っています。しかし、パウロは神による救いというのは、それとは違うと教えているのです。むしろ、善を行うどころか不信心で神への反抗心さえ持っていた人間に対して、「神は御子イエス・キリストを通して救いの手を差し伸べておられる」ことを信頼し、そのお方に礼拝の心を持てたら救いはその人に届くのだと語っています。
 働いた対価としての「救い」ではなく、働きのない、働くことさえできない存在に対する神の憐れみと恵みを知り、その神を信頼し礼拝するなら「救」が届くのです。パウロはダビデの言葉を詩篇32篇から引用していますが、そこにあるのは「受け取る資格のないような存在に対して提供されている神の大きな祝福」「恵みによる赦しと救い」に対する感謝の言葉です。
 これらの言葉を容易に受け取ることができないのは、私たちの中にある「プライド」が邪魔をしているからかもしれません。「なんでもやればできるのだ」と信じている人たちにとっては、受け入れることの難しい概念かもしれません。報いとして、報酬としての「救い」のほうが自分の手柄として評価できるような気がして、一方的な神からの救いを喜べないことがあるのです。パウロが教える「救いの提供」とは、頑張れる人にだけもたらされる救いではなく、頑張れないからこそ与えられる救いなのです。

 ローマ4:9-10
 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
 割礼という儀式はユダヤ人男子にとって、誇りとしているものであり、神に選ばれた民として必須の出来事と考えられていました。その儀式はある意味で「神との祝福の契約が始まった」ような意識を持たせるものでした。しかし、パウロは大胆にも、信仰の父と尊敬されているアブラハムを例に出して、アブラハムが神から義と認められたのは、割礼の後ではなく、むしろ割礼を受ける前のことであったと指摘しています。
 世の中に存在する「割礼を受けた人たち」に対しても「割礼をうけていない人たち」にも等しく「救いの恵み」は届くのです。しかし、それは割礼を受けることで選民としての自覚を強めてきたユダヤ人にとっては、パウロの言い分は屈辱的な教えと理解され、パウロはいたるところでユダヤ人たちからの脅し、迫害を受けるのです。
 しかし、異邦人と呼ばれているいわば「無割礼」の人たちにとっては大きな喜びの知らせです。私たちはユダヤ人になる必要はないし、ユダヤ人の真似をする必要もありません。それぞれの国と文化の形の中でキリストの福音は届けられ、救いがもたらされるのです。ハレルヤ!
 私たちが罪を継続的に犯し続けていたときに、キリストは私たちの罪の身代わりになって十字架で死に、私たちの罪を赦して神様と和解させ、私たちの人生に救いを与えてくださったのです。信じる者に与えられる神様の恵みを知り、信じる者として救いをいただきましょう。