メッセージ


聖書箇所

箴言3章5-7節

4月24日(日)
メッセージ

大久保 望信
説教題:「あらゆる所に」
説教要旨:行く所どこにおいても主を認めましょう。

 みなさん、おはようございます。今日はダニエル書からメッセージをしていきたいと思います。
 さて、旧約聖書はイスラエルの歴史が大きな割合を占めています。イスラエルは神様に特別に選ばれた民ですが、あまりにも偶像礼拝を捧げてこの天地を造られた全知全能の神に従おうとしませんでした。なので、主は他の国がイスラエルを侵略することを許しました。ダニエル書はイスラエルがアッシリアに包囲された時の話です。
 紀元前605年ころネブカデネザル王がエルサレムを包囲しました。そして、エルサレムで最も賢い男たちを多数バビロンに捕囚として連れてきました。ダニエルもその一人で、敵国の偶像が溢れる中、まことの神様を熱心に信じていました。今日はそんなダニエルと、その同胞である、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤ共に政府に仕えていた時の話です。
 まず彼らのプロフィールを見てみましょう。
 1:4 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀(ひい)で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。
 彼らはスタイルがよく、イケメンで、天才で、物知りで、判断力があったと書かれています。本当に完璧な者たちでした。つまり彼らは、主から選ばれるだけではなくて、人からも認められるような者たちであったことが分かります。しかもイスラエルの民の中で、王族か貴族の中から選ばれたということなので、特別に能力の持つ者たちであったようですし、信仰的にも優れていました。そんな彼らに王様はまず新しい名前を付けます。
 1:7 宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。

 この名前の意味は割愛しますが、実はすべて偶像の神を崇拝するような意味の名前ばかりでした。つまり王様は、彼らの神への忠誠心を、まことの神様から異国の神へと変えようとひそかに考えていることが分かります。また、ダニエル達が捕囚された目的は、その国の学問を学び王に仕えることが目的でしたが、その背後にはその学問を通して彼らの考え方を変えようというたくらみがありました。しかも彼らの信仰を惑わすことはそれだけではありませんでした。それは、王宮で出る食べ物です。彼らのいる国はイスラエルではなく外国なので、当時ユダヤ人が食べて、身を汚してはならないとしていた食べ物を普通に食べている環境でした。つまり、王宮の食事をさせることによって、食生活も変えようとしているのです。彼らは名前、価値観、食生活を異国の文化に揺さぶられていました。私たちも知らず知らずのうちにこの世の影響を受けてしまう者です。悪魔はクリスチャンを弱らせて、祈りを止めさせたり、神様に目を向けさせないで、自分の弱さや問題に目を向けさせようとします。しかし、私たちが主に向くならば、栄光から栄光へとイエスキリストと似た姿に造り変えてくださると約束しています。ですから、どれだけ私たちが日々主に心を向けることが出来るのかが非常に重要です。この世の価値観によって惑わし、あたかも希望がないかのように歩ませようとする悪魔の策略に私たちは立ち向かう必要があります。

 彼らは食べてはならない食事を見た時にすぐ対応しました。8節です。
 1:8 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。
 今日の一つ目のポイントは、彼はどのような場所にいっても、神の前に正しい行いをしようと心に定めたということです。彼は外国の地に来てその文化の中で普通に行われている食事の中でも、神様に従い通すことを心に定めていました。ダニエルは捕虜として外国に連れてこられました。ある意味、絶望的な状態ではありますが、しかし、その心は主に向いていました。当時の彼らは少年たちと書かれているので、歳は若かったと思います。そんな彼らが故郷を離れ異国に地に来るということは、自分の家族とも離れ離れにならなければならないし、自分たちの文化の違いや宗教の違いで沢山のストレスを抱えるし、王宮で仕えることになるので、粗相な振る舞いが命取りになるような場所だったので、いつも神経を使って慎重に行動していたかもしれません。しかし、彼らはその中にあって恐れるのではなく、嘆くのではなく、自分たちの神様の前に罪を犯すことが無いようにいつも主に心を向けていたのです。もしも、ダニエル達が自分とこの世の線引きをしっかりとしていない人だったとするならば、異国の地でそこまでの信仰を見せることは出来なかったでしょう。しかしこのように、普段から心にしっかりと定めているならば、何か惑わすものが来た時も、楽に断ることが出来ます。私たちも常日頃から、主の喜ばれる選択をしようと心に決める必要があります。そうしないと、いつか自分の信仰に妥協しなくてはならなくなってしまうからです。わたしたちは主の証人ですから、いつも光を放っていく者となっていきたいと思います。

 そして、そのような彼ら共に主がおられました。9節です。
 1:9 神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。
 1:10 宦官の長はダニエルに言った。「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。」

 主は、宦官の心を変えることによって、見えないところでダニエル達を守っていました。主の守りは時に大胆に私たちの分かる形で起きますが、ほとんどが見えない中で主が私たちを祈っていてくださっていて、守り力を与えてくださっています。聖書には主は、試練と共に脱出の道さえも用意してくださることが約束されています。私たちの想像をはるかに超えたことを計画して、周りを変え、状況をかえ、問題への解決へと導いておられます。

 それはつまり、わたし達はどんな時でも希望があります。なぜなら、主の御手の中に私たちはいるからです。希望が見えない世の中だからこそ、先に希望が与えられた私たちがその希望を握って、宣べ伝えていく者でありたいと思います。私たちの希望は、イエスキリストが私たちの救い主となられたということです。それは、全ての人間が十字架による救いを受け取るためであり、それによって神と和解を受け取るためです。この神との関係は人間にとって最高の歩みでした。しかし、一番初めに造られたアダムとエバによってその関係が崩れました。しかし、イエスキリストが再びその道を用意してくださったのです。私たちがまた主につながるのならば、どれほどこの地上で苦難を経験したとしても、永遠に続く主との関係の喜びの方が勝っているのです。
 そのようにして主は、宦官の心に憐れみの心を働かせてくださいました。しかし、食事の献立を変えることは王の命令に従わないことになるので、恐ろしくて出来ませんでした。そんな時ダニエルが提案したことが12節に書かれています。
 1:12「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。」
 つまり、禁じられたものを食べない代わりに野菜を食べさせて自分たちの健康状態と王の食事をたべている少年たちと見比べてほしいという提案です。確かに、野菜を多くとることは健康には良いですが、どちらが太るか考えるならば、お肉も食べているしもべの方が、体格も体重も増えるはずです。しかし、ダニエルには何の迷いもありません。自分がどのような場所に置かれても、必ず主の御業が起こされると信じていたのです。ダニエルがこのように交渉したことは非常に聖書的です。というのは、ダニエルが何か力づくでとか、宦官に罵声を言ってその食物を食べなかったのではなく、お互いが納得のいくようなやり方で自分の意見を通したからです。私たちは世の中からも正しい評価を受けるべきです。それは、人の評価を気にして生きていくのではなくて、証になる行動をするということです。神は愛です。と言いながら、人の陰口を言ってしまうのならばそれは、まったく説得力がありません。イエス様の名前を汚さないように、日々生活していきたいと思います。

 さて、結果はどうなったでしょうか。
 1:15-16十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。
 ダニエルが信じたように主の御業が起こり、本当に健康的な体を保つことが出来たのです。このように、ダニエル書1章だけでも主がダニエルと共におられることを深く知ることが出来ます。彼は異国の地でも妥協することなく自分の信念を曲げませんでした。

 次に、ダニエルの同胞たちも見てみましょう。ダニエルのほかにも、イスラエルから連れてこられた者たちがいましたが、ここで取り上げられている者たちは、ハナヌヤ、ミシャル、アザルヤでした。彼らもダニエルと同じで、歳は若いですが主にしっかりとつながる信仰を持っていました。
 ある時王様が金の像を作り、国の人たちを集めてその像を拝ませました。そして、もしもその金の像を拝まないならば火の燃える炉の中にいれる、という無茶苦茶な命令を出してしまいます。彼らは、まだ若い間に両親と別れて異国に地に連れていかれて、おまけに偶像礼拝をしなかったから火あぶりに合うなんて、人生の喜びも希望もありません。彼らは、この際仕方なく郷に入っては郷に従えと言う言葉もあるし、せめてこの国でしっかりと立派に王様に仕えようじゃないかと、堂々と偶像を拝むことも出来た事でしょう。人は困難が来ると何とか耐えて乗り越えようとするけれども、その困難が立て続けに来るならば、私たちは時に神に見放されているのではないか。と神を疑う誘惑を受けます。神様がいるならばきっとこうなるであろうという自分の予想と全く想像もつかないことが起きると、あたかも自分が神から切り離され愛さえ感じられなくなるほど、孤独を味わうこともあります。
 しかし、最も孤独を味わったお方がいます。それはイエスキリストです。
 今日の2つ目のポイントは、私たちの孤独をイエス様が背負ったということです。
 私たちは自分の罪が私たちを孤独なものとしました。それは、人間自ら犯した罪の結果なので、自分のしてしまったものを刈り取っているだけです。しかし、イエスキリストはそうではありませんでした。天のお父さんとイエス様との間には何の隔たりもなく、一つでした。そのイエス様を地上に送り、自分の愛する子供を孤独にすることによって、今度は孤独だった私たち、神との関係がなかった私たちを主は一方的に救いを与えてくださいました。イエス様は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と言って孤独を味わったのは私たちがもはや孤独に生きるのではなく、神と関係を持つことが出来るようになるためでした。ですから、私たちはあらゆる時に主を信頼することが出来るのです。イエス様が十字架にかかったということは、私たちが孤独ではないということの保証なのです。ローマ8:38-39にはこのようにあります。
 8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
 8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 どれだけ私たちがキリストの愛から離れたくっても、離れることは出来ません。ですから、不信仰になっても私たちに与えられているこの保証は変わりません。

 さて、立て続けに起きる荒波の中で彼らはどうしたのでしょうか。それは、つぶやくことでも、神を疑うことでもなく、主の教えを守るという道でした。ダニエル書3:15です。
 3:15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
 3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
 3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
 3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 彼らは何の迷いもなく王の命令よりも主の教えに従順になりました。一番驚いたのは王様だったことでしょう。今まで自分に仕えてくれた若者たちが面と向かってその命令に背いているからです。王は怒りにみち、いつもよりも7倍熱く火を燃やします。その火があまりにも熱くて、彼らを縛っていた家来が誤って焼け死んでしまうほどだったと聖書では書かれています。もし、私が彼らの中にいたら、アブラハムがイサクを捧げる時のことを思い出したと思います。そして、アブラハムが息子イサクをいけにえとして屠ろうとして、剣を振りかざした時に神様の声があったように、自分たちが炉に投げ込まれる時に、きっと神様が「待て!」と言って声をかけてくださるに違いないと期待していたと思います。けれども、いくら耳を澄ましても神様の待ったの声がかからず、結局彼らは縄で縛られて、火の中に入れられてしまいます。彼らの生涯が終わった瞬間だと思われました。
 しかし、驚くことが起きたのです。王も怒りに燃えていましたが、ふと彼らがどうなったのか気になったのか、恐る恐る炉の中をのぞきました。するとなんと3人を縛り炉に入れたはずなのに、炉の中には4人に見えて、その一人はみ使いのような姿をしているのです。しかも、彼らはなんの害も受けていませんでした。王は急いで彼らを呼び出し彼らの体を調べますが、頭も服も焼けずに焦げたにおいもしませんでした。彼らにとってもこの奇跡は想像も出来ない事であったと思います。きっと彼らはこの後神を心から崇め、真実なお方であると確信を持ったと思います。それを見た王様も彼らの神がまことの神様だと、疑うことは出来ませんでした。こうして、この3人によってまことの神様の偉大さを皆が知ることとなったのです。私たちは苦難の時に主の偉大さを体験します。私たちは祈り求めた事がすぐ与えられると、それで満足してそのことも忘れてしまいますが、祈り求めても答えられないと、その中で私たちの信仰を成長へと主は導きます。なので、答えが与えられるよりも、その答えを祈り求めて主と交わる時間の方がよっぽど価値のあることだと私は思います。その苦難の先にある主の恵みを受け取る時に、耐え忍んでいたその歩みが自分の証となるからです。霊的財産になるからです。また同じ葛藤を覚えた時、あの時イエス様が助けてくれたから大丈夫だと言えるようになるのです。私たちの歩みがそのような恵み溢れる歩みであることを主に感謝しましょう。

 私たちも色々な場所に神様が置いてくださいます。普段日曜日は教会に来て主を礼拝し、神の家族交わります。しかし、いざ教会から出ると私たちはあらゆる場所に出ていかなければなりません。家、仕事場、学校、部活、サークル。そのような場所に出ていく時に忘れてはならないことは、主を認めるということです。主を認めるというのは、すべての分野を神に委ねることを言います。 今日のポイント3はあらゆる時に主を認めるということです。箴言の3章5-7節にはこのようにあります。
 3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
 3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
 3:7 自分を知恵のある者と思うな。【主】を恐れて、悪から離れよ。

 ダニエルや他の同胞たちが異国の地に連れてこられたのにも関わらず、つぶやくことが無かったのは、彼らはあらゆるところで自分の考えではなく、神により頼む者たちだったからです。愛するみなさん、ぜひ私たちは自分の価値観や優先順位を吟味する必要があります。私たちは人生におけるあらゆる分野に関してすでに神様を意識しているかもしれませんが、神様が関与することを制御しようとしたり、神様を無視している分野があるのならば、それは主ご自身が悲しまれるだけではなく、私たち自身を苦しめることになります。あらゆる分野で主を意識することは、罪から離れるだけではなくて、信仰の戦いを勝利していく為にも欠かすことが出来ないことです。 家にいる時、仕事場にいる時、学校にいる時、部活をするとき、私たちの心の真ん中には誰が座っているのでしょうか。ダニエル達が捕虜として異国の地に来ても、信仰を貫き通したように、私たちもどのような場所にいても、主の御言葉に従って生きる者となりましょう。