メッセージ 6/12

説教題 洗礼と信仰生活 牧 師
聖書箇所 ローマ6:1-11 濱野 好邦
説教要旨 洗礼を受けて神の子とされた者として成長し、キリストに仕える人生を生きていきましょう。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

 6:4 -11 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 パウロは洗礼の意義について教えています。洗礼は「キリストと共に葬られ、キリストと共に死んだ」という象徴であり、また「キリストと共に死者の中から復活させていただいた」ことの信仰告白でもあります。ですから、今、私はキリストと共に死に、キリストと共に生かされている自分として「このいのち」を生きているのです。

 洗礼は単なる宗教的な儀式ということではなく、現実的に今私がどういう立場で生きているのかを示す大切な信仰告白であり、今現在の生き方を「確定する」重要な出来事です。

 洗礼を受けたのだから「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」とパウロは勧めるのです。キリストのいのちに覆われて生きているのが、洗礼を受けた人たちの現状なのです。

 でも、それがわかると、心に勇気が湧いてきます。私はひとりで孤独の中に生きているわけではなく、死に打ち勝ち、復活なさったキリストと共に生きているからです。

 6:12-14 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

 洗礼を受け、キリストの死とキリストの復活の出来事と自分の出来事を重ね、新しいいのちと共に生き始めた私たちは、その後、「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」とパウロは奨励しています。実はこれは、決して無理強いからの命令ではなく、キリストのいのちに覆われ、神の愛のこもったケアを受けながら今までとはちがって自分がボスではなく、キリストがボスとして自分の中に生きていてくださることがわかりますから、当然のこととして「神を喜び、生き方全体を神の義のための器として捧げる」ことが喜びとなってくるのです。

 義務的な命令からの献身ではなく、喜びとともに前向きな献身ができるようになってくるのです。それは、私たちが罪の下に牛耳られているのではなく、行いによって完成を目指す律法の圧力によって動かされるわけでもなく、神の恵みの下に置かれているから可能なのです。

 死の恐れ、罪の奴隷、律法の圧力による「苦し紛れの神への奉仕」ではなく「礼拝の心を伴う神への献身」が可能になるのです。毎日「イエスさま、私はあなたのものです。どうぞ、あなたの喜びを一緒に喜べる一日でありますように、あなたの悲しみを共感できる者でありますように、恵みの支配の中においてくださって感謝します」と祈りながら今日を生きられるようになるのです。

 6:15-18 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

「律法の下にいて苦しみもがいていた私たち」がキリストの十字架と復活の出来事と一体化され、「恵みの支配下」に置かれるようになったことが洗礼という出来事を通して明らかになりました。

 パウロはそこで「恵みに下に生きているのだから、何をやっても自由、罪を犯しても自由」なのか?と問いかけます。

 答えは「ノー」です。私たちは神の身内とされ、新しい心をキリストによっていただいたのですから、罪の奴隷として生きるのではなく「義の奴隷」「神の義を喜びながら生きるしもべ」として生きるべきだとパウロは言います。

 ボブ・ディランの曲のひとつに「ユーブ ガッタ サーブ サムバディ」というのがあります。神に仕えるか、悪魔に仕えるか、そのどちらかしかないのだという強烈な歌です。福音をしっかり心に教えられ、罪の奴隷から解放され、新しい主人、神ご自身に喜んで仕えながら生きたいという意識が育ってきます。そして、その姿勢を保つための重要な要素は「礼拝」です。

 6:19-23 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 「罪の支配下に生きる」ことの終着点は「死」だとパウロは主張します。肉体的な死だけでなく、神との関係における「死」です。つまり永遠的に神の祝福が遮断されてしまう状況に置かれることになるのです。

 しかし私たちは「恵みの支配下」に置かれ、罪の支配下からは解放されているのですから、聖なる生活を希望し、神を喜び、神に喜ばれる生き方を継続できるのだとパウロは言います。

 そして、その生活のもたらす結果は「永遠の命」なのだと教えています。永遠の死に向かうのか、それとも永遠のいのちに向かうのか、その立場は明確にするのが「キリストへの信仰」であり、「洗礼」についての理解です。

 罪は報酬として「死」をもたらします。しかし、その報酬をキリストが全て引き受けてくださったので、それを感謝し、神への礼拝の心をもって生きる時、賜物として「永遠のいのち」が用意されているのです。永遠の命は「賜物」なのだとパウロは教えています。私たちが善行を重ねた結果の報酬ではないのです。恵みの賜物なのです。お金でも努力でも受け取ることのできない、神の賜物なのです。嬉しいことです。洗礼を受けて神の子とされた者として成長し、キリストに仕える人生を生きていきましょう。