メッセージ 6/12

説教題 パウロの悩みと感謝 牧 師
聖書箇所 ローマ7:14-25 濱野 好邦
説教要旨 何故自分が罪人であり、何故キリストの十字架によって救われるのか、自分の実情をしっかり自覚して、イエス・キリストの救いを福音として受けとめましょう。

聖書
 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

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 洗礼についての説明が前の章にあり、キリストを信じて「洗礼」を受けたということは、「罪」と決別したということだと学びました。この7章でも別な形で説明しています。洗礼で明確にしているように「キリストの死とつながる」「キリストの復活とつながる」ことで「律法の要求、律法による罪の確定、律法による断罪」などが処理されているのだとパウロは教えています。

 それはちょうど妻が夫の生存中に他の男と一緒になれば姦通の女と言われるけれど、夫が死ねば、その律法から解放されて自由になり、他の男と一緒になっても姦通の女とは言われないのと同じだと言うのです。

 神様と人との間の契約である、律法の要求に応えることなく、律法による断罪を受けることなしに、律法から自由になって新しい出発はできないのだということです。だからこそイエス様の十字架の死と復活は大きな意義があるのです。

 旧約聖書での律法はモーセの十戒に集約されています。これを守れば救われるという神と人との契約です。新約聖書でのキリストの戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。

 モーセの十戒とキリストの戒めの内容は同じです。私たちには実行不能と思われることであり、実行してみれば挫折と絶望という結果しかでてきません。

 この律法に対してキリストが死んだのです。律法に対してキリストと共に死んだ私たちは、古い律法ではなく、新しい神の霊が心に与えられ、そのお方の教え、そのお方の促しに従って歩むようになれるのです。律法に縛られるのではなく、聖霊に満たされ、律法を楽しみ導かれて歩むようになるのです。

 律法にる強制ではなく恵みによって、信仰によって義とされると書いてきたパウロは、ここで律法についての弁明を語っています。12節で「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」と語って、律法は決して悪いものではなく、むしろ、私たちに罪の自覚をもたらすための機能をもっているのだと語ります。

 律法によって私たちがどれほど神様との契約についてズレてしまっているのか、また、どれほど基準に足りないのかがわかるようになり、律法自体が救いをもたらすことはなく、むしろ「罪あるもの」としての自覚を育てるだけだということがわかるのです。律法によって罪の現実に気づかされることになります。

 パウロは「神が私たちに与えてくださった律法」は本当に有益なものなのだろうかと論を進めています。律法が存在することで、自分のした事が、規制され、ある部分は「罪」と断定されることになりました。規則や律法がなければ「罪」と認定する基準がないわけですから心配はないのですが、規則や律法の存在によって「自分のした事が罪だ」「罪のもたらす結果は神との断絶、死」「自分の存在自体が罪となってしまっている」ということに気づかされるのです。

 単純に、律法を守り抜くことを決意しても、それで神から救いを受けることは不可能であることがわかります。だとすると、自分のした事や思いを「罪」と断定する律法は悪なのだろうか。パウロは、律法は聖なるものであり、良いものだと教えます。しかし、この律法は私たちを常に「罪に断定する」だけの役目しかもっていないのでしょうか。

 確かに律法は「罪ある人間」に「判定を下し、死をもたらす」役目を果たしています。律法は「罪の邪悪さ、罪の深刻さ」を示し、私たちを追い詰め、逃れられない「とがめ意識」「罪責感」を作り出し、律法を守りぬけない自分には救いはないような気持ちを心に作り出すのです。

 冷静に考えれば、誰一人律法を守り抜くことで「救い」を褒美として受け取った人はいないのです。しかし、律法が存在するからこそ、私たちの目を「救い主キリスト」に向けさせる重要なきっかけが用意されたのだと理解することができます。

 行動や修養、律法遵守を心がけても100点満点が取れない以上、律法による救いはありません。それは私たちを圧倒的にがっかりさせますが、だからこそイエス・キリストが遣わされ、私たちの身代わりに「律法の要求に答えるべく十字架で死なれた」ことが「福音」なのだとわかります。

 しかも、不思議なことに、キリストを信頼し、キリストによって罪の清算をしていただくと、律法を守って生きるのではなく、律法が喜びに変わってくることに気づけるはずです。

それまでは、自分中心であり、断罪をもたらす律法は邪魔でしたが、キリストを信頼することで「律法は邪魔なものではなく、神の喜ぶ道を示す大切なもの」という理解が育ってくるのです。律法が重苦しい「掟」とは感じなくなるのです。交通ルールを守って自動車を運転している人にとって、交通法規は重荷にはなっていないのと似ています。神の律法は私たちの人生を邪魔するものではないのです。ただ、神に敵対している人にとっては断罪の判定を突きつけるものと映るのです。

 

 自分の思い通りに動いてくれない心と体、悪を止めようと思ってもそれができず、善を行おうと考えても悪がつきまとい、自由に善のみに集中できない弱さをもっている人間、それが私たちの現状であり、パウロの深い体験の中で気づかされたことです。

結局、神に断罪されても文句を言えない状況にばかり落ち込んでいってしまう自分をどうすることもできず、ズルズルと悪の影響下にひきずられている自分に気づくと善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」という叫び声をあげないわけにはいかないほど、自らの無能力に打ちのめされてしまうのです。

 こういう状態にある私に救いはあるのか、これはパウロの重大な質問です。そして、答えをパウロはこう書いています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(7:25) 。と語って人間の悲惨を神はご存知で、キリストを通して救いの道が提示されたのです。この後、8章以下でさらにパウロは詳しくキリストによる救いを書き出していきます。

 パウロは自分の心が汚れているということで言いようもない大きな苦しみを抱えていました。きよめも信じられず、復活も信じられなかったのです。そのパウロが復活したキリストに出会い、キリストの十字架と復活の意味をすっかり知ることができたのです。

 神様に背き、他の人に迷惑をかけ続けたパウロでしたが、キリストがその罪を弁償し、償ったので赦されたのです。パウロは胸を張って赦された人として、神様とキリストの素晴らしさを語るのです。自分の存在が祝福され喜ばれていること以上に嬉しいことはないのです。