メッセージ 9/25

説教題 聖徒の喜び 牧 師
聖書箇所 詩編16編 大久保 望信
説教要旨 いつも主の関係の中で喜びを受け取っていきましょう

ハレルヤ!主の御名をほめたたえます。
皆さんはどのような時に喜んでいますか?給料日ですか?仕事が休みの日ですか?遊びに行った日でしょうか?賛美しているときでしょうか?メッセージが短い時ですか?私たちが感じる多くの喜びは、状況によって左右されるものではないでしょうか?

先日私は、風邪をひきました。しかし、その事によって色んな方々が祈って下さり、少しでもと言って愛餐会に出た食事を温めてくれたり、体のためにと言って、料理や食べ物を用意してくださいました。他にもいろんな方々が励ましてくださったので、その日礼拝終わった直後は八度五分あった私の熱が、夜には六度三部にまで下がったのです。本当に皆さんの励ましと祈りに支えられたと事を実感し、とっても嬉しかったのを覚えています。 私たちは、人に励まされたり、感謝されたり、仕事で何かうまくいったり、家庭での問題が解決した時、喜びが湧いてきます。今日はそのような喜びについてみていきます。聖徒の喜びとタイトルを付けましたが、聖徒達の喜びというのはどのようなものなのでしょうか?

聖徒、言わばクリスチャンの喜びは未信者と少し違うことがあるのは確かです。なぜならば、未信者とクリスチャンとでは価値観が違うからです。
最近、私が強く感じた違いは人の評価についてです。この世の中は人からの評価、自分の社会的な地位、他の人からの目をとても気にします。その事を生きがいにして生きている人さえいます。自分の能力を伸ばすことは何も悪いことではありません。神様に与えられた自分の体を使って精一杯頑張ることは、大きな結果を産むことになります。しかし、そこにある落とし穴があるとすれば、自分一人だけでも生きていけるというおごりです。確かに、人は努力することによって色々なことが出来ます。しかし、忘れてはならないことは、私たちには限界があるということです。もしも、自分の力や能力によって自分の価値を証明しているのならば、その力が通用しなくなる時に、自分の生きる意味を見失ってしまいます。

聖書では、人の地位や権力によらず、能力によらず、ただ主を信じて生きることを聖書では教えています。たとえ周りが自分の能力を認めてくれなくても、社会的な地位を持っていなくても、自分でさえも自分の価値を認めることが出来なくても、神様は私たちを愛し、主の働きの為に用いようとされるお方です。

今日は詩編からそのような聖徒の喜びについて共に聞いていきたいと思います。先ほど読んでいただいた詩篇の16編を見てください。

1節には「 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。」 と書かれています。この作者はダビデですが、この箇所を見るだけでも彼が平安の中で言っているわけではないことが分かります。彼の歩みは、サウル王に命を狙われたり、神様の臨在をもたらす契約の箱が敵に奪われたり、自分の息子に自分の命を狙われたりと、とても苦しく、一難過ぎたらまた一難来るような人生を歩むことになりましたが、ダビデの歩みは主に身を避けることによって、その危険を回避していました。なぜそこまで神に対する信頼があったのでしょうか?それは彼が元々していた職業が羊飼いだったかもしれません。羊飼いは何かのんびりしているイメージがありますが、羊を養い育て、迷子にならないように一匹一匹を数えて、野獣と戦い、羊を守る仕事をしていました。ですから、毎日毎日、神様により頼みながら歩んでいたのでしょう。ですから、彼はその困難の中で、神は自分の助けであると確信を持って信仰持つことが出来たのかもしれません。

私たちが飛行機に乗る時も、ある意味信仰を働かせなければ乗ることが出来ません。あの大きな鉄の塊が宙に浮いて、無事着陸するということを信じていなければ、誰もあの乗り物に乗ることはありません。身を避けるとは、そのお方に信頼していることの証です。

次に2節を見ましょう。
16:2 私は、【主】に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
この一節と二節の感情の差が激しいことに気が付くでしょうか?しかし、この個所の中に彼の霊性が現れているのが分かります。
また神との関係の喜びは、周りの人間関係を通しても神様の愛を体験することが出来るとダビデは語ります。
3節です。
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。 「地にある生徒たち」と言うのは、信仰の戦いを共にしているものを指しています。神様を信じる中での喜びであり、私たちの信仰を強め、励まされるものは同じクリスチャンとの関係です。箴言の御言葉には「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」とあります。主は、神との関係だけではなく、愛する対象を身近に置いて下さっています。共に仕えあい、励まし合い、祈り合い、時に叱ってくれるような関係。その関係の中で、主の愛を体験でき、この関係から私たちはより神の似姿へと造りかえられていくのです。その為に教会があります。一人で信仰を保つのではなく、共同体の中でお互いが成長していくことを主が願っておられるのです。
祈祷会の中でも最近では、ディボーションの冊子を使って、みなさんで同じ個所を読み、受けた恵みを分かち合っていますが、一人で御言葉を味わう時と比べて、それぞれに感じたことが違い、よりその内容が深まっていきます。なので是非、教会の中や、夫婦や家族の中で主の喜びを共に味わっていきたいと思います。

4節です。
ダビデは偶像礼拝について語り、そのことを自分は避けていることを主に告白しています。
私達と神様の関係がいくらでも続くことを願いますけども、それをさせないと妨害するのは悪魔です。どうにかして、関係を崩そうと必死なのです。
16:4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
この痛みとは、偶像礼拝の時にする不道徳な行為のこと。「注ぐ血の酒」は間違った宗教行為、つまり主が喜ばれない間違った礼拝です。神様以外のものを求め、心とらわれる時にそれによって人との関係や心が傷ついてしまうことを言っているのです。あるクリスチャンの方がインターネットの書き込みにこのようなことを書いていました。その人は、テレビのニュースで援助交際をしてお金を稼いでいる女子高生が取り上げられている番組を見たそうです。その女子高生になぜそのようなことをするのか聞いた所、「援助交際をすると、可愛いねとやさしい言葉をかけられるからだ。」と言ったそうです。「でもこんなことしたくないでしょ?本当は何を求めているの?」という問いに対して、彼女はこういったそうです。「少しでもいいから、お母さんに振り向いてもらいたい。心配してもらいたかった。」
これ読んだとき、自分は偏見を持っていたことに気が付きました。
誰も、自分を傷つけたい人なんていないのです。そのような間違った方法で、お金を稼ぐ人であっても、罪を犯し続けている人であっても、どこかで「ただ、愛されたい。」という気持ちを抱えて、がむしゃらに、その心を満たそうと色々な物をはめてみる。何とかして自分の心を満たそうとして、傷ついた心をいやそうとして色々努力してみる。けれども、私たちは自分の努力によっては自分を幸せにすることは出来ないのです。
イエス様は私たちに寄り添うために、この地上に来られたのです。その痛みに寄り添うために、苦しみをうけられました。私たちが孤独にならないために、イエス様が自ら孤独になりました。私たちを愛してくださったからです。そして、私たちが犯した罪によってまた縛られないようにするために、イエス様が復活しましたよね。イエス様が死なれ復活されたことは私たちの希望であり、喜びそのものであるのです。

続いて5-7節。
16:5 【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
16:7 私は助言を下さった【主】をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。

ダビデにとって、主ご自身がゆずりの地所であり、私への杯だと言っています。主から来る財産ではなく、主が自分の財産であると言っているのです。クリスチャンも地上的なモノではなく、永遠の分け前である主を与えられているのです。私たちは神様がしてくださる祝福を求めがちですが、本当におおきな祝福と言うのは、主が与えられたことであり、主と関係を持てることです。沢山の恵みを主から与えられていますが、一番の恵みは救われたということです。暗闇の中にいた私たちを主が引きあげ神の子として、神様と関係を持つことが出来る。これ以上の恵みはありません。ここに私たちが賛美するための十分な理由があるのです。
私たちはその喜びを受け取っているでしょうか?今みなさんには喜びがありますか?もしも、無いならば、その喜びを妨げているのは何でしょうか?「すべて疲れた人、重荷を負った人は私の所に来なさい。」と主は今日も私たちを招いています。私たちはいつも主の安息の中に入りたいと思います。

8節です。
16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
私たちが救われる前と後で、はっきりと違うことは、自分中心から、神中心に変わったことです。またそのようになろうと、決心できたことです。罪の性質が足を引っ張り、罪を犯してしまう弱さはありますが、それでも主に立ち帰りたいと思うことが出来る。これが、大きな違いです。そして、この8節にある、「自分の前に主を置く」ということは、神様に対して服従を意味し、「右におられる」とは主が助けて下さると、確信を表す言葉なのです。ダビデが王となり、様々な国と戦う時にいつも主に尋ね求める姿勢があります。どんなに自分の国が強かったとしても能力におごることなく、全知全能なる神に服従し従っていました。そして、主がともにいて勝利を治めて下さることを信じて出て行くのでした。

聖書でこのような記事があります。弟子達が夜通し漁をしても何もとれなかった時に、イエス様からアドバイスをもらいました。イエス様は大工の子でしたから、漁師の弟子たちにとってあまり面白いことではなかったでしょう。しかし、その通り従った時に、沢山の魚を取ることが出来ました。どんな状況でも、主の御声を聞き、自分の考えよりも主の導きに従う道こそ揺るぐことのない道です。

16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

10節は9節を説明しています。
つまり、16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

ダビデの喜びは主との交わりが永遠にあるという確信にあるのです。神の交わりによって与えられる命の力が全身をつつみ、癒しを与えて下さるのです。

16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
11節の命の道とは、命にあふれる道ということです。私たちは命溢れる道を歩んでいます。
主の御前にある喜びは、私たちの状況に左右される喜びではありません。私たちは神様が困難や悲しい出来事に心がふさがると、神が自分を見放したと思える時があります。祈っても答えられない。何をしても上手くいかない。けれども、神様の愛は決して変わらない愛です。状況ではなく、いつも神様の愛に喜んで日々を歩んでいきましょう。お祈りします。