メッセージ 10/23

説教題 神を知ること 牧 師
聖書箇所 エペソ人への手紙 1:17 大久保 望信
説教要旨 私たちの目線

突然ですが、障害物競走を知っているでしょうか? よく、運動会の競技の中に障害物競走という競技があります。チームに分かれて速さを競うかけっこのようなものですが、自分が走るコースには色々な障害物があって、ハードルを乗り越えたり、平均台に乗ったり、輪をくぐったり、縄跳びをしながら走ったり、色々な障害物をくぐってゴールまで向かう競技です。
教団の中高生キャンプでもこの障害物競争をしたのですが、少し変わったルールでした。二人一組になり、障害物をこなす方には目隠しをしてもらって、もう一人が手を引いてあげてその障害物をこなしていくルールでした。
結構難しそうにも思いますが、手を引いていてくれる人がいるので、障害物を乗り越えることが出来るのです。これがもし、手を引く人がいなかったり、手を引いていく方向と逆の方向へ向かうならば、たちまち自分がどこにいるのかもわからなければ、その障害物を乗り越えることが出来ないのです。
私たちの歩みも似ていて、障害物競争のように、生きている中で沢山の壁にぶつかるわけですが、手を引いてくださる主から離れてしまう時、迷ってしまいます。逆に、主の御手に手を引かれながら歩むならば、障害物があっても乗り越えることが出来るのです。私たちの歩みでは障害物が出てくることは避けられませんが、その障害物を乗り越えるすべを知っているのならば、怖いものはありません。今日の個所はパウロが、エペソの人達に対して祈った祈りを取り上げています。実はこの祈りが、障害物を乗り越えるヒントとなるのです。それでは17節を読みたいと思います。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
パウロはここで、知恵と啓示の御霊を主に求めていますが、それは何のためだと書かれていますか?それは、「神を知るため」です。実は、私たちは救われる前、神を知らない者なのです。罪を持った私たちは神様と断絶していて、神様を意識することも、ましてやそのお方のために生きようとも思ってもいなかったわけです。しかし、そのような人間と神様の関係がイエス様の十字架によって回復され、その福音を信じた時、神様が私たちにしてくださった恵みを知っていくのです。しかし、それはゴールではなくスタートラインで、神様を知るには、日々古い価値観に死に、新しい神の価値観をもって、神様を体験し、神様に信頼して信仰が与えられ、成長していく過程が必要です。
人は、神ご自身を知りさえすれば、その歩みは確かなものとなります。私たちクリスチャンの問題は、神ご自身を知ることを目的にするよりも、自分の行なっていることに注目してしまうことです。けれども、もっともっと大事なことは、神ご自身を見つめることなのです。イエスさまが、死に渡される前に、このように父なる神に祈られました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)」永遠のいのちとは、まさに父なる神と、イエス・キリストを知ることそのものなのです。この過程そのものが、永遠のいのちなのです。したがって、私たちが神を知ることが最重要課題であることが分かると思います。

先ほども目隠しの障害物競争の話をしましたが、その目隠し状態の私たちの手を引くのは神様です。その手をしっかりと握ってさえいるのならば必ずゴールへたどり着くことが出来ます。しかし、私たちが気になっていることは手を引いて下さる神様よりも、その障害物であり、その問題の大きさなのです。あるいは自分の弱さ、罪深さに目を当ててしまいます。しかし、手を引いているのは神様であることを私たちは忘れてはなりません。

このエペソ書を書いたのはパウロです。ここまでパウロが、エペソの人達や、他のクリスチャン達がイエスキリストを知ることを願うのかと言いますと、彼自身がキリストの愛を深く知り、体験した人だったからです。
彼の過去の名前はサウルでした。彼の家庭は、ユダヤ教の中でも、生粋と厳格とを誇るパリサイ派のユダヤ教を信仰していました。エルサレムの教育を受け、熱烈なパリサイ主義のユダヤ教徒に仕上げられたパウロは、その家柄、教育、学識、熱心の故にユダヤ人として最高の地位にまで上りつめたと誰しも思っていた人物でした。ですから、そのようなユダヤ教のエリートであった彼にとって、キリスト教徒は異端なのです。「イエスキリストがメシヤだって?とんでもない!」と言って、多くの信者を迫害し捕まえて牢屋に放り込んだのです。しかも彼は、それを神への忠誠心から行っていたのです。しかし、そんな彼に転機が訪れます。キリスト教徒に対する憎しみを心に燃やしながら、ダマスコという町に行く途中にイエス様と出会うことになります。彼は今までしていたことをすべて善意からしていましたが、それは、まったくの勘違いであったことを知りました。それだけではなく、その迫害していた相手は自分が熱心にお仕えしようとしていた主ご自身であったことに気が付くのです。彼は自分の罪の大きさに気がつき、主の御前に、ただひざまずくしかありませんでした。しかし、そのような自分の罪を主は赦してくださって、それだけではなく、福音を広める者へと自分の人生を新しくしてくださったのです。その深い愛を彼は身を持って体験したのです。ですから彼は、神を知ることがどれほど私たちキリスト者の力となり、喜びの源であるかを知らせようとしているのです。

御言葉に戻りますが、そのように神を知るためには私たちの努力によるのではありません。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
パウロは、神を知るために知恵と啓示の御霊が注がれるように祈りました。
聖書の参考書などを広げて熱心に読んでみると、イエス様の福音の奥義やご性質をよく知ることが出来ます。しかし、それは知識的なことで、生きたイエス様を知るには聖霊様が語ってくださらなければ知ることは出来ません。
以前も話したように、私はクリスチャンホームで育ちましたから、小さい頃から神様の話を聞いていました。神様が愛してくださった。イエス様が罪を背負ってくださいました。イエス様を信じると天国へ行ける。お祈りをするとヨーグルトもらえるなど、(これは我が家だけ)色んな神様のご性質を聞かされていました。しかし、これは私の知識は蓄えられても、心からそれを体験していなかったのです。そんな私が本当に聖霊に満たされる体験をしたのです。それは、実家の礼拝堂で一人で賛美している時でした。私はその時、非常に神様に飢え渇いていたのを覚えています。そして、ただ私を「聖霊で満たしてください!」といって祈り続けていました。そうして賛美をしながら祈っていた時に、心の奥底から言いようもない喜びがあふれてきました。最初何が起きたのかわかりませんでした。しかし、後から神学校にいた姉から聖霊に満たされる体験をしたことを知りました。有名な御言葉ですが、マタイの7章7‐11節を開きたいと思います。
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

これは、神様に求め続けるならば聖霊を与えてくださる。という約束です。親が子供に、欲しがるものを与えるように、この世界を造られたお方は、私たちの霊的なお父さんです。ですから私たちが必要な物を何よりも知ってくださっているお方です。私たちはそのお方に求めることを許されている者なのです。そして、私たちが聖霊に満たされることは神様が願っておられることです。ですから私たちは、日々聖霊に満たされるように祈るものでありたいと思います。私たちの両手にもしも何か重荷を抱えているのならば、与えられるものも受け取ることが出来ません。まずは私たちの両手いっぱいに抱えたものを十字架のもとに置く必要があります。そして両手を空にして求めた時に、主を知る恵みにあずかることが出来ます。

続いてエペソ1章18節を読みましょう。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
パウロは神を知るための御霊が注がれることを願いました。次に祈った祈りは、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになる」ことでした。神を知るためには肉体の目ではなくて心の目が開かれる必要があります。
普段私たちが生活するときに欠かせないのは光です。この目という器官はとても大切なそして優れている器官ですが、光がない所で何かを見ることは出来ません。そのように、私たちの肉体の目が物を見る時に光が必要なように、私たちの心の目も希望の光に照らされて満たされなければ、神を知ることは出来ないのです。パウロは、ダマスコに行く途中、ものすごくまぶしい神様の光に包まれて目が見えなくなってしまいました。しかし、その代わり心の目が開かれ神様を知る体験をするのです。
面白いことに、私たちの肉の目は、時に自分の信仰を弱らせてしまうことが多々あります。肉の目で現実や、問題を直視するとき、私たちは途端に絶望してしまいます。しかし、心の目で見ようとするならば、私たちは期待することが出来るのです。

私は、よく夜行バスを使います。先日も、名古屋にバスで行きましたが、私がまだ学生の頃は、バスのチケットをインターネットで予約して、コンビニで払うとバスのチケットをもらうことが出来ました。しかし、最近バスを予約すると領収書しか来ないでチケットをもらうことが出来ないのです。それでは、どうやってバスに乗るかというと、予約が完了したというメールが届き、いついつどこに集合するか、バスの名前は何か、降りる場所はどこか、などといった内容のメールが届きます。
そして当日、実際にバス乗り場に行って自分の名前を言えば、それで済んでしまいます。確かにチケットをわざわざ持たなくていいので、無くす心配はありません。私はとてもよくものを無くすので、そういう意味ではいいのかもしれませんが、手元にチケットがないというのは、少々不安なわけです。予約したことは間違いなくても、手違いで自分の名前が座席になかったらどうしよう。と、余計なことを考えてしまいます。
その出来事があった時に、人はいかに普段目に見えることで安心しているのかを思い知ったのです。しかし、信仰というのは、本来目に見えない所にこそ働かせるものであり、そこから踏み出した後に主の恵みがついてくることを私たちは忘れてはならないのです。神様がなされる奇跡は、必ずなにもない所に起こされます。5000人に食べ物を配った時も、食べ物がわずかしかない所に現わされた奇跡です。イエス様によってたくさんの病人が癒されました。その時も、健康がない時に起こされた奇跡です。出エジプト記で荒野を旅したイスラエルの民がいましたが、荒野というのは渇いた砂漠の地で何もない所です。しかし、その何もない所に主の奇跡が起こされていきました。私たちも、人生の荒野を旅する時があるかもしれませんが、それは神様を体験するチャンスかもしれません。何もない所に主の奇跡が起こされていくことを私たちは心の目を開いて、信仰を持って期待していきたいと思います。

続いて19節を読みましょう。
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
パウロが最後に祈ったのは、全能の神の働きによって働く神の優れた力がどのように偉大かを知れるように。と祈りました。神様は全能なお方。あのクリスチャンが大嫌いだったパウロ、教会を迫害し、たくさんのキリスト者を迫害したあのパウロが大宣教者として神様に仕えるようになったことはまさに全能の神様の御業です。

パウロがここで、全能の神が働く力を知ることが出来るように祈っていますが、私たちが必要な視点は相手を変える、または状況が変わることではなくて、自分の心が主に向き、主の偉大さを知ることかもしれません。この世の中で歩む限り、障害物がなくなることはありません。ですから、信じた私たちが神様から与えられる希望を知っているのならば、日々訪れる障害物にもぶれないで済むようになります。私たちはこの歩みの中でさらに聖霊様によって主を悟り、日々主に期待しつつ歩んでいきたいと思います。お祈りします。