メッセージ 10/23

説教題 キリストの体 牧 師
聖書箇所 エペソ1章20-23 大久保 望信
説教要旨 キリストの体として召して下った主に、日々応答していきましょう。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。エペソ書を読み進めています。エペソ書は教会の設計図。パウロがエペソの人々や周りにある教会に贈られた手紙です。神様が定めた教会の本来の働きや、本質、またそこに集うクリスチャンの持たなければならない真理、それはこの聖書が書かれた頃の人たちだけではなくて、今も生きる私たちにもとても重要なメッセージです。皆さん「教会って何ですか?」と聞かれた時になんと答えますか?教会にとって一番重要な事は何ですか?と聞かれたならば、皆さんは何を想像するでしょうか?毎週来ている教会であっても、私たちは知っているようで知らないことが沢山在るのかもしれません。そのような疑問をこのエペソ書を通して、みなさんで神様に聞いていきたいと思います。さて、これからエペソ書に入っていきますが、今日でエペソの1章は最後になります。
 この一章の内容を一言でいるのならば、教会とはどのような人たち集まりなのかを定義している。即ちそれは、イエスキリストの一方的な恵みによって召し出された者の集まりだということです。ユダヤ人お得意の血筋とか、アブラハムの先祖とか、律法を守ったからとか。そのような理由で救われ教会の一員になるのではなく、イエスキリストを信じる信仰によって私たちが救われるということです。つまりそれは、誰一人クリスチャンになったことで自分を誇ることは出来ないということです。
 恥ずかしい話ですが、私は昔自分がクリスチャンだということで、周りの未信者に対してあまり良い思いを抱いていませんでした。神様に背を向けている彼らを私たちはどこかで見下げて、軽蔑していたのです。しかし、それは全くの間違いです。なぜならば、皆さんもご存じ、私たちクリスチャンは人の努力によるものではなく、神様の方から近づいてくださり救われた者たちだからです。「教会」の言語はギリシャ語で「エクレシア」と言って、「召し出された者」という意味があるそうです。つまり、一方的に神様が恵みを注いでくださり、選び、召し出してくださった者の集まりなのです。それだけではありません。私たちは救われて御国に入る特権が与えられただけではなく、この地上で神様の働きをも用意されているのです。
 私の実家では、毎週水曜日の晩ご飯の洗い物当番は私でした。祖母も一緒に住んでいたので7人分の食器がいつも台所に山積みにされて、私の働きがしっかりと用意されていました。ですから、水曜日はいつも食器だけにショッキングな日でした。しかし、イエス様の働きはそのようなショッキングな働きではなくて、ここにいる一人ひとりがその働きのために必要だと言って召してくださっているのです。

 そして、先週のメッセージでは、その召してくださった神様を知ることが永遠のいのちだと話しました。永遠のいのちは死んだ後の話ではなくて、今を生きる私たちと神様との関係のことだとパウロは語っているのです。
 私たちは救われた後、今まで自分が持ち続けてきた古い価値観を捨てて、新しい価値観を持って歩む必要があります。
 私が救われる前と後で大きく変わったことの一つが、自分は弱い存在でも良いと思えるようになったことです。イエス様を信じる前は自分が弱い存在であることを受け入れるのを恐れていました。すると、いつも背伸びをして生きるようになるのです。虚栄心を持ち、自分を大きく見せようとして結局、自分の限界を知って、疲れて挫折をしてしまう事がよくありました。その頃もイエス様を知っていましたが、そのような状態の時は自分しか見ていないのです。しかし、イエス様に出会ってからは、自分が弱くても神様が強いお方だから大丈夫だ。と、自分で頑張る以上の平安を知ることが出来たのです。

 そのように、わたしたちが主を知ることは、古い価値観を新しくしていく事になるのです。そして、その歩みの中で私たちを縛るものが取り去られていくのです。真理は私たちを自由にするのです。

 今日はその続きの個所です。天のお父様はそのようにあらゆる祝福を私たち人間に注いでくださったのですが、何よりも大きな祝福は全能の力によってイエスキリストを復活させたということです。
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
 なぜ、イエス様の復活が私たちへの祝福なのでしょうか。それは、イエス様の復活があるので私たちも復活することが出来るからであり、イエス様の復活は死にも悪魔にも勝利されたという証なのです。なので、私たちの肉体が死んだとしても、イエス様がこの地上に再臨される時、私たちも復活します。それに加えて、イエスキリストの復活は、罪の奴隷となっていた自分が死に、神の子どもとして復活するという霊的な恵みが約束されています。もしも、わたしたちが信仰を持っても復活したことが曖昧になってしまうと、悪魔があらゆる過去の罪を掘り返して責め立ててくるのです。悪魔は告発者と例えられるほどに、イエス様が背負ってくれた十字架をわたし達にもせをわせようと必死になるのです。しかし、私たちはどのような揺さぶりにも動じることはないのです。周りの人は自分を責めるかもしれません。犯した罪、失敗してしまったことで自分を判断してくるかもしれません。しかし、イエスキリストの復活の力が与えられているのですから、私たちが悔い改めたことを改めて私たちが背負うことは何もないのです。責められることも何一つなく、光の中を歩むことが許されたのです。罪を犯したならば悔い改めることは欠かせないことです。しかし、私たちはイエスキリストを信じたことで、罪の奴隷からイエスキリストのしもべとなり、日々イエス様に似たものに変えられていく歩みを歩んでいるのです。

 ローマ書ではこのようにあります。ローマ6:5-6
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

ですから、私たちを責めるものは何一つないのだということを今日ここで再確認したいと思います。私たちはもはや罪の奴隷ではないので、接ぎ木された木のように、救われ神様に似せられていく過程を私たちは歩んでいるのです。私たちは日ごとに復活されたイエス様に似せられていきたいと思います。

 さて、そのように復活されたイエス様に天のお父さんは何をされたのでしょうか?
1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
 すべての権威が与えられ、全ての名の上に高く置かれたイエス様が、私たちの主となって下さるとここでは約束しています。その支配は私たちに何を意味するでしょうか?それは、これからさらに世の終わりが近づき戦争や飢饉、地震や偽預言者など、聖書に書かれていることが起き始めている今の世の中でも、私たちは希望を持つことが出来るのです。マルチンルターはこのような言葉を残しています。有名な言葉ですが、「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」という言葉です。明日が見えない絶望の中でも、彼は未来への希望を持ち続ける信仰の宣言をしています。
 おととい、私の兄弟の次女が2人目を出産しました。アメリカ人と結婚しているので、顔はハーフのような雰囲気があります。元気な少しぽっちゃりした女の子で、名前をみのりとつけたようです。このみのりちゃんは、これからお母さんのもとで、すくすく成長していくと思います。母乳を飲んだり、おむつを変えてもらったり、服を着させてもらったリ、体を洗ってもらったりと親という一つの権威に自分の身を任せているのです。母親は子供の必要を知っていて、鳴き声で何を欲しがっているのか分かってくると聞いたことがありますが、そのように、自分の必要を知って与えてくれて、成長へと導いてくれる親がいるので、赤ちゃんは安心してその身を任せることが出来るのです。同じように私たちも、権威を持ち私たちを成長へと導くお方に常に希望を持ち、より頼むことで、自分の力ではなくて神様の偉大さを知ることが出来るのではないでしょうか?私たちには限界がありますが、全てを治める主は限界がないお方です。みなさん、皆さんの職場も、身の回りの人間関係においても主が支配し、造り変える力があることを私たちは信じていきたいと思います。どんなに壊れた関係であっても、イエスキリストの愛がその関係を回復することが出来ることを信じ、私たちがついつい頑張ってしまう心、自分で何とかしなければならないと、せわしくしている手を少し止めて主の御腕により頼んでいきたいものです。

 さあ、次の個所では教会に焦点が当てられています。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 この世界を治めておられる主が、私たちの教会の頭となって教会がキリストの体だとこの個所では書かれています。この体という表現は新約聖書のいたるところに書かれている内容で、それは教会の一致を現わしている言葉です。体の中には沢山の臓器が入っていますが、その臓器がしっかりと自分の役割を果たすことによって健康でいられます。みなさん、私たちの足には指何本生えているでしょうか。片足5本ずつで10本の指が私たちの足に生えています。これがもし、10本もあるのだから、一番はじにある子指くらいなくても大丈夫だろうと思う人がいるかもしれません。しかし、実はこの子指がないとバランスを崩して人は立つことが出来ないと聞いたことがあります。どんな小さく、必要のないように思える器官でもその存在が欠けることによって体全体のバランスが崩れてしまうのです。私たちは日ごろ何も考えていなくても、けがをしたりすると、その部分のありがたみを知ることはよく言われていることですが、教会が一致してそれぞれの器官をいたわることで、その教会が健康なからだでいられることが出来るのです。しかも、それは各器官違う役割が与えられていることが重要なポイントです。先ほども話しましたが、各器官がそれぞれの自分の役割を果たすことで体は健康でいられるのです。
 私たち一人ひとりには賜物が与えられていて、教会をたて上げるためにそれを用いていくことが出来るのです。

 ある宣教師が、賜物が生かされる面白い話をしていました。
 ある時、教会の中で誕生日を迎える人がいました。その人にケーキを買ってきた人がいました。しかし、なんと運んでいる最中にそのケーキを落としてしまったのです。すると、奉仕の賜物がある人は、すぐにキッチンに行ってフキンや掃除道具を持ってきて掃除を始めるのです。次に教えの賜物がある人は、なぜそのようなことが起きたのかその場の状況をまとめ始めて、これからは通路を広くしようと呼びかけました。次に、励ましの賜物のある人が、ケーキを落としてしまった人に寄り添ってその人を祈り励ましたのです。そして、捧げる賜物がある人は新しいケーキを近くのお店に買いに走っていき、皆が無事においしいケーキを食べることが出来たという話です。それぞれの役割が違いますが、それぞれ神様が与えてくださっている賜物を用いることによって教会がたて上げられるのです。賜物が与えられていない人はいません。それぞれに神様が教会の建て上げのために、その役割を与えてくださっているので、自分に与えられている場所で教会をたて上げていく者でありたいと思います。
御言葉に戻りますが、イエス様は私たちの頭となり、その体は教会だと語られています。

 その体がしっかりと機能するには、頭から信号が送られる必要があるように、体にとって頭はなくてはならない機関です。私たちもキリストという頭はなくてはならないもので、キリストという頭がなければ教会は何の集まりかもわからなくなってしまうのです。そして、それと同じように、かしらも自分の意思を実現するためには、体が必要なのです。このところに教会の素晴らしさであり重要性があります。神様はこの人類の救済計画、御国の働きをするときに、ご自分だけでするのではなくて、私たち教会を用いてその計画を完成しようとされているのです。イエス様も福音を伝えていくときに12人の弟子たちを連れて働きをしました。その12人の弟子も決して完ぺきではない者達ばかりです。完璧どころか、ある弟子は3度イエス様を知らないと言ったり、ある弟子はイエス様が大事な話をしている最中にこの中で誰が一番偉いのかということばかりを気にして、ある弟子は、イエス様をローマ兵に銀貨と引き換えに売ってしまうような者でした。しかし、イエス様はそのような欠陥だらけの弟子たちをあえて身の回りにおいて、いつも一緒にいて神様の働きをしていました。

 旧約の時代、用いられたリーダー達もいろいろな弱さを持っていました。エジプトの地からイスラエルの民を導いたモーセは口下手でした。しかし、聖書を見るとモーセは自分が口下手と言いつつも結構いろいろなところでしっかりとしゃべっているのが分かります。ギデオンは臆病でしたが少ない人数で敵を追い散らしました。ダビデは、情欲にもろいところがありましたが、素晴らしい礼拝者であると同時に、あらゆる戦いで勝利を王様でした。私たちは自分の力が小さく見えたとしても、神様はその弱さを用いて主の栄光を現わしてくださるお方です。
Uコリントの御言葉にこのような言葉があります。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

まとめです
天のお父さんはイエス様を復活させ、その復活の恵みを私たちも受けて新しい命を歩んでいます。古い自分は死に、キリストによって今日も主の栄光を現わすことが出来るのです。それだけではなく私たちを体として、集め一人ひとりに賜物を与えてくださいました。自分の足りない所ではなくて、足りないところを用いて主の栄光を現わしてくださる主に目を留めて、キリストの体がさらにたて上げられるように、日々主に応答していきたいと思います。