メッセージ 12/18

説教題 主の戦い 牧 師
聖書箇所 サムエル記T17:43-50 大久保 望信
説教要旨 私たちのあらゆる戦いに、主が共にいて戦ってくださることを信じて歩みましょう

 みなさん、おはようございます。今年最後の日曜日となりました。あっという間の一年でした。今年もいろいろなことがあったと思います。みなさんにとって、今年一年はどのような一年だったでしょうか?振り返れば、本当に充実した良い一年だったなとか、こんな嬉しい出来事があったなとか、あるいは、ため息ばかりついていたなとか、つぶやいてばかりいたなとか、人それぞれ思うことがあるかもしれません。
 特に千葉教会で言えば、2人の方が洗礼をうけられて、新しく神の家族が増えたことは、千葉教会にとっての大きな喜びです。これからこの教会は二人の信仰を励まして、皆さんで支えていきたいものです。

 さて、メッセージに入りますが、今日の登場人物は自分の力量に合わない戦いをして、主の偉大さを知った人物が登場します。それはダビデです。しかもここの個所は有名な個所なので皆さん、よく知っている個所だと思いますが、ダビデの信仰を皆さんで見ていきたいと思います。先ほど読んだ個所は、この話の最後の方なので初めの方から皆さんで見ていきたいと思います。

○ゴリアテの強さ
 Tサムエル17:4-5節まで読みます。
 17:4 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。
 17:5 頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。

 イスラエルと敵のペリシテが戦うこととなりましたが、ペリシテの兵隊の中には、見るからに強そうな戦士がいたのです。それがゴリヤテでした。身長が約2m80pある大男です。彼は大きな体だけではなく、57キロの鎧を付けているほどに力の強い戦士でした。その戦士が一対一で勝負を挑んできたのです。大勢で相手にするならまだ勝ち目があっても、一対一でゴリヤテと戦うことに彼らは恐れてしまったのです。
 イスラエルの民はゴリヤテと自分をきっと見比べた事でしょう。しかしゴリヤテは体だけが強いわけではありません。
 10節を見ましょう。Tサム 17:10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」ゴリヤテはイスラエルの民の逃げ腰っぷりを馬鹿にして、馬鹿にしたのです。つまり、イスラエルの陣をなぶることは、同時に生けるまことの神様を馬鹿にしたのと一緒なのです。ゴリヤテの自信と威嚇はイスラエルの民たちの心を砕きました。体の大きさでも勝負は歴然で、生ける神様にも動じない敵に圧倒されて兵士たちは固まってしまったのです。

 小学生くらいの頃でしょうか?いじめっ子に対処する秘訣を持っていました。それは意地悪をされた時に、「先生に言うから!」ということです。すると、やっぱり先生に叱られるのが怖い年頃の子はいちころでした。最近は先生に言うことが出来ない人も増えていますが、自分を守るためにはそのような知恵が必要でした。
 イスラエルの民は、先生ではなくて「神様」という権威がついていました。しかし、このゴリヤテには「神様」という権威を目の前にしながら動じない男なのです。

○エッセイの子、ダビデ
 しかし、この緊迫した空気を壊してくれる人がいました。それは、エッサイの息子ダビデだったのです。彼が戦場に来た理由は兄たちに弁当を渡すことでした。しかし、ダビデがゴリヤテの挑発を耳にして、「私たちの神様を馬鹿にするこの男は何者だ!」と言って激怒するのです。そうして話は思わぬ方向へ進んでいきます。
 17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
 ダビデの職業は、羊飼を飼う仕事です。敵と戦う訓練なんてしてこなかった者でした。しかし、彼はゴリヤテと自分を比べるのではなくて、神様と比べていたのです。この信仰が周りの兵士たちと違いました。周りの兵士はゴリヤテの体の大きさ、威圧感、強さを見て恐れ戸惑っていて、自分達には神様が共にいて守って下さることを忘れてしまいました。それは、何も神様を信じていなかったわけではなくて、あまりにも大きく手強そうな戦士を見てしまったがために、その事を忘れてしまいました。実はこれが、私たちが陥りやすい罠です。神様に目を向けるのではなくて、人や問題を見てしまうことです。
 人がこの地上に生きている間、困難や患難は次から次へと襲ってくるもので、身の回りには考えなければいけないことが沢山です。仕事の中での人間関係、学生は将来に対する不安もあります。また、家庭の問題や自分の健康のこと、自然災害など。一つ解決したかと思えばまた新しい出来事が起こるのです。その事ばかりを考えているのならば、暗闇を歩いているような、希望もないような気持ちになってしまいます。このイスラエルの民も、ゴリヤテの強さに圧倒されて戦意喪失してしまったのです。それは、背後にいてくださる神様ではなくて、目の前にいる人に目を留めていたからなのです。しかし、ダビデだけは違いました。その事をもう少し掘り下げて読み進めてみましょう。彼の信仰が現れている個所があります。

○主の戦い
今日の個所をもう一度読みます。
 17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
 17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
 17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
 17:46 きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
 17:47 この全集団も、【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

 ダビデが、自分の力や経験によって生きている人だとするならば、とっくの昔に逃げていたと思います。ですが、彼はそのゴリヤテに対して戦いを挑むことを決意し、しかも一人で向かったのです。そのわけは、この戦いを「主の戦いだ」と考えていたからです。つまり、自分一人でそのゴリヤテと戦うのではなくて、主が主権をもって戦ってくださるという信仰を彼はもっていたんです。その言葉は、普段神様と共に歩み、野山で羊を飼いあらゆる野獣から羊を守るとき、いつも主が共にいて力を与えられていたダビデだから言えることでした。
 ダビデもきっと自分の力と比べるならば、到底かなう相手ではないことを知っていたと思います。自分は兄の弁当を置きに来ただけだと言って、逃げることも出来たと思うんです。しかし、彼がここまで言うことが出来たのは、彼は自分の身に起きる戦いを一人で戦っていなかったからです。私たちは、自分の歩みがスムーズに進むことを願いますが、実際はなかなかそうなることはありません。邪魔が入ったり、問題が起きたりして、私たちはあらゆる時にその問題に対処しなければならないのです。しかし、大事なことはその戦いは、自分一人の戦いではなくて「主の戦い」であることを知ることです。私たちはどうしても自分一人でその戦いを戦っているかのように思ってしまって孤独を感じてしまいます。しかし、ダビデが自分一人戦いではないことを宣言していったように、神様が自分の戦いに介入されることを知る必要があります。私たちは自分の周りの戦いをどのように戦っているでしょうか?
私たちは孤独ではありません。私たちの命を造り今日まで導いたのは主です。詩編2章7節にはこのようにあります。
 2:7 「わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
 この、「わたしがあなたを産んだ」という言葉の意味は、神様が主権を持って私たちを導いてくださっているという意味があるそうです。私たちが孤独にならないために、代わりにイエス様が十字架の上で孤独になりました。ここにいる一人ひとりが、罪を背負わないために代わりにイエス様が罪を背負いました。私たちが罪の罰を受けないために代わりにイエス様が罰を受けました。イエス様は死にましたが、復活しました。死にも打ち勝った方が共にいてくださるのですから、これ以上の力はないのではないでしょうか?

 イエス様の十字架、それは私たちへの愛の証であり、永遠に導き共に戦ってくださるという証なのです。「この戦いは主の戦いだ」といつも、どんな時でも、共に戦ってくださる主により頼んでいきましょう。