メッセージ 1/22   互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。1テサロニケ5:11

説教題 栄光のために 牧 師
聖書箇所 イザヤ43:4-7 大久保 望信
説教要旨 神様の栄光を、生活の中で現わしていきましょう。

ハレルヤ!主の御名あがめます。今日の御言葉はクリスチャンならば一度は読んだことのある、有名な個所であり、沢山の人がこの御言葉に励まされ、この御言葉を通して神様を信じた人も中にはいることだと思います。
特に4節に「43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。私たちはこの地上にいる限り、人から傷付けられ足り、理不尽な目に合うことが避けられません。私も、以前ある人から「のぞむといて、得したことがない。」と言われました。その人は、私にとって親友に思えるほど仲のいい友達だったので、その彼が自分の存在を認めてくれなかったことを知った時、ショックで自分の価値を見失ってしまいました。しかし、私たちを評価するのは人ではありません。私たちを評価する計りは、損得ではありません。能力があるからとか、学力とか、社会的な地位とか、お金、ルックス、素敵な家を持っているとかそのようなものが私たちの価値を決めるのではありません。ここにいるみなさんも、一度は人から言われた言葉によって傷つけられたり、この世の中の基準に自分を当てはめて、他の人と比べてしまった経験があると思います。いやむしろ、クリスチャンとなり、聖書を読み、神様の愛を受けていながらも、まだなお、ものの考え方、価値観が変えられないでいる人がいるかもしれません。
「43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」っていうけれど、「どうして、こんな自分に価値があるの?どうしてこんなものが愛されるの?」私たちは時々、自分自身ですら、自分の価値を認められない時があります。信仰をもって歩みたい。でも、いつもつぶやいてしまう。神様に信頼できない。クリスチャンだっていうけれども、全然クリスチャンっぽくない。生き方が証になっていない。」そのような葛藤をいつも抱えながら、自分を責め続けているのではないでしょうか?しかし、それは間違いです!そして、そのような自らを間違った価値観で見てしまうのならば、また、間違ったクリスチャン観を持っているのならば、たちまち、歩みはもろく自信のないものになってしまいます。今日はそのような、間違ったクリスチャンのイメージを捨てて、正しい御国の価値観を神様から聞いていきたいと思います。

○罪人のかしら
みなさん。そもそも、クリスチャンらしいって何でしょうか?
ある未信者の方にわたしが、クリスチャンです。と言って話をした時です。その人は、私に向かって、「自分はそんな聖い人間にはなれないなぁ。」って言ったのです。確かに私たちは、救われました。聖い者になりました。しかし、この言葉は少し的を外しています。皆さんは、どこが間違っているのか分かりますか?それは、清められること、言い換えるならば救われることは、私たちが努力して、正しい行いを沢山して、なれるものではなくて、イエスキリストを信じたことによって与えられるものだからです。クリスチャンらしさというのは、罪を犯さない事ではなくて、つぶやかない事ではなくて、イエスキリストに救いを求め、イエスキリストに希望を置いている人のことを言うのだと私は思います。聖い人は一人もいません。私たちは何か頑張って、良いことをすることで救われるのではありません。そうではなく、一方的な神様の憐れみによって私たちは救われたのです。

あの、新約聖書の時代、パウロは沢山の教会をたて上げて、沢山の人を救いへ導き、牢獄に入っている真っ最中でも、何よりも、教会の信徒さんのことを考え手紙を送り続けていました。そんな彼は、自分のことを信仰者だ!とは言わずに、なんといったかというと、自分のことを「罪人のかしらだ」と言ったのです。どれほど人から尊敬されたか分かりません。沢山の人から、「先生、先生!」と言われて、慕われていたと思います。しかし、彼は誰よりも自分の罪深さを知り、救い主であるイエスキリストにいつも祈り求めて、迫害の中にあってもイエスキリストにより頼みながら、新しくされた命を生きている人でした。
私たちは、何か神様を使って人生を幸せにするのではありません。それは、人間が作りだしたご利益宗教と一緒です。私たちは、神様を使って人生が豊かにされていくのではなくて、神様と出会うことが人生の幸せであり、豊かさなのです。詩編を見ると、ダビデが神様に祈り求めている姿が色んな所に書かれています。ある時は嘆きを、ある時は感謝を、ある時は敵を呪ってくださいと呪いの言葉さえ書かれています。そのようにして、ダビデはいつも神様に救いを求め、神様により頼んでいました。パウロのように、またダビデのように、クリスチャンの歩みとは、より頼む歩みなのです。

○高価で尊い
さて、今日は天のお父さんの愛をもう少し深く掘り下げてみたいのですが、いくつか個所を開きます。まずは先ほど読んでいたイザヤ書です。イザヤ書43:4-6節です。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
43:6 わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。

この個所は、本来はバビロンに捕囚されているイスラエルの民に向けて語られた言葉で、民たちを捕囚から連れ戻して復興させるとここで言われています。イエス様が来られたので、全ての人に対して神様の愛がこの個所に言われているように注がれていますが、本来はこの言葉ばイスラエルの民に語られたものでした。そして、ここで忘れてはならないことは、この言葉は罪を犯し続け、何度も神様に立ち返るように言われながらも、改めようとしなかったイスラエルの民に語られていることです。主は、そんな民たちを見捨てることはなさらずに、また故郷である、イスラエルに集めようとされているのです。それは、神様が私たち一人一人をその行いによって扱うことをせず、存在を愛してくださっている愛の現れです。

余談ですが、今年も教団の中高生キャンプもこの神様の愛を実践するという目標を掲げました。もうすでにこの一月からプログラムスタッフは動き始めていています。今年の餃子キャンプのテーマは、「イエス、マジぱねぇ!」というテーマを掲げています。若者の言葉で、これだけではよくわかりませんが、「イエス様の愛は本当にすごい!」という意味です。今回のテーマを考える時、イエス様の愛はどんな愛だろうか?という話が出ました。様々な意見が出ましたが、その中の一つに、普通じゃない愛だと言われていました。
それはどういうことかというと、誰かに、何か嫌なことを言われた。だから、その人を嫌いになる。これは、人間の持つ普通の反応です。人から理不尽なことをされた。だからその人のことを赦さないで、裁いてしまう。これは、人間の持つ普通の反応です。残念ながら、そのようなことが日常の中でよく起こってしまうことです。しかし、イエス様は敵を愛しなさいと言われました。相手の罪を赦しなさいと言われました。つまり、イエス様の与える愛は、普通じゃなくて、私たちの常識を変える愛だと言われていました。なので、そのイエス様を信じる私たちもイエス様のように、非日常的に人を愛し、人に仕えることを学ぶキャンプでいこう!という意味を込めて、「イエス様の愛は、半端じゃない!」を縮めて、「イエス、マジぱねぇ!」というテーマで進むことが決まりました。

今神様が私たちに願っておられることは、その愛を知り、受け取ることなのです。自分が持っている先入観を捨てて、神様の差し出された愛をただ受け取る。そしてその愛を流していくことを主は願っておられるのです。

○栄光のために
さあ、7節を見ましょう。ここには神様がイスラエルの民を集めた動機が書かれています。
43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
主は、イスラエルの民を「ご自分の栄光のために」集められています。それはイスラエルの民が優れているからではなくて、神様が選んだ民だからです。旧約聖書を見ると民が神様の律法を無視して偶像礼拝をしたり、神様の教えた方法と違う礼拝を捧げたり、不信仰になって神様を疑ったりと、彼らの良い所よりも、悪い所の方が目立って見えます。しかし、同時にそこには、神様の愛も顕著に現れていて、罪を赦し、警告し、敵の手に渡して裁きをする側面もありながらも、最後には赦しの道を備えてくださっているのです。これほどまでに罪を犯し続ける民ならば、もっとましな民族を選び祝福すればいいのではないでしょうか。もっと忠実で、もっと謙遜で、神様の言われる言葉を素直に受け入れそうな民を選べばいいのではないか。と思います。けれども、ここに神様の大きな愛があるのです。このような 弱いイスラエルを神様は、創造し、選び、造ったと言われるのです。そして、このイスラエルの民は神様の栄光を現わす民族として選ばれたのです。
それは、私たちも一緒なのです。

○イエスキリストの救済
人類の救済は、イスラエルだけではなくて異邦人にも広がっていきました。
イエス様は2000年前に生まれて、十字架に掛かり、死に勝利して復活し、救いの御業を完成しました。コロサイ1章にはこのような御言葉があります。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
私たちは、御子によって造られ御子のために造られました。イスラエルの民がもう一度主の栄光を現わす民として集められたように、この地上をさまよう私たちも、イエス様の十字架によってもう一度神様の子供として選ばれ、救われました。救われる前はこの地上に生きる意味を自分が決めていたことでしょう。この地上での幸せを願い、この地上での繁栄を求めて私たちは生きていました。しかし、イエス様に出会ってから私たちの国籍が変えられて、帰るべき故郷が与えられたのです。本来私たちが与えられていた、神様の栄光を現わすという役割をもう一度与えられたことを私たちは忘れてはならないのです。
なぜなら、もしこの地上での繁栄を求めるならば、その為に努力してきたことが通用しなくなった時、生きる理由を見失ってしまうからです。

星野富弘さんを皆さんご存知だと思います。星野さんは、中学の体育教師でしたがクラブ活動中に、頸(けい)髄(ずい)を損傷して手足が動かなくなってしまいましたが、その後クリスチャンになって口に筆をくわえて文や絵を書き始める様になります。その星野さんが、入院されていた頃の葛藤をこのように書いています。

私は、体育の教員やっていたぐらいですから、小さい頃からズーッと身体を動かしたり、体力を使うということは自信があったんですね。それで精神的にもよくその頃「根性」とか「忍耐」 とかという言葉が流行っていて、自分でもそういった根性がある。他の人よりはあるし、頑張りもきくんじゃないかなあという気持でいたわけなんです。いざ自分って、今度はまるっきり 動けなくなってみて、そういうものが全然通用しないんですね。 それでこのままズーッとベッドの上で寝たままでいなければならないという身体の苦しみもあったんですけど、それまでやってきた、自分が持っていた自信がまるっきり役に立たなくなってしまったという、その挫折感といったらいいんですか、そういうものの苦しみのほうが多かったように思います。
当時の星野さんは、それこそ自分の頑張りや自分が持っていた自信が役に立たなくなり、挫折感を味わうようになったと言われています。しかし、この挫折を経験してから、三浦綾子さんの「塩苅峠」に出会います。その後、三浦綾子さんの作品に触れる中で、クリスチャンとなり信仰を持ち始めるのでした。
もしも星野さんが、神様に出会わずにこの地上での繁栄を求め続けていたのならば、手足が不自由になってしまったことで、希望を失っていたことだろうと思います。しかし、救われた星野さんは生きる意味が自分ではなくて、神様に変えられていったのです。そして、絵を書き、聖書を土台とした詩を書くことによって、沢山の人を励ますこととなりました。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
主は私たちを一方的に救ってくださいました。そして、神様の証人としてこの地上に派遣されました。日々、主の栄光を現わしていきたいと思います。