メッセージ 6/25   互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。1テサロニケ5:11

説教題 愛するということ〜愛する模範〜 牧 師
聖書箇所
マタイ6:9〜15
佐藤 龍平
説教要旨

愛するために必要なこと、それは信仰をもって行動、実践することだと話しました。どういうことかというと、私にはできないけれど、神様ならできるという神様の前にへりくだり、ゆだねる信仰を持つことです。

私たちに必要なものはそれだけではありません。もう一つ必要なものがあります。

それは愛するという覚悟です。
この覚悟はイエス様の中にも見られます。弟子たちが裏切ることを知っていながら、彼らを招いてともに過ごし、彼らを愛されました。自分を裏切るとわかっている人を、私たちは愛することができるでしょうか。難しいですね。ですが、イエス様の覚悟は、そんな彼らでも徹底的に愛そうという覚悟です。

彼らが裏切ったとき、イエス様の心は痛まなかったでしょうか?誰であろうと悲しみはあります。イエス様は言っておられます。人を許すならば、7の70倍許しなさい。これは490回許しなさいと言っているのではなく、490回といわず、何度でも、無限に許しさなさいという意味です。

許すとは裏を返せば愛するということです。無限に愛しなさいといっているように思います。つまり、愛するのならば、とことん覚悟をもって愛することを求められています。
愛することも、許すことも簡単なことではありません。家族の中での、教会でも、社会の中でも、私たちは傷を負うことがあります。もう、愛せない、時に憎しみに似た感情を抱くことさえあります。愛することといっても、そんなことできないですよ。難しいですよ。と思う人もいるでしょう。

ですが、そのような私たちに神様は、聖書はこのように語っています。

箴言14:4
牛がいなければ・・・
知恵者と言われたソロモンの言葉です。

牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。まったく当たり前のことです。牛がいなければ、飼い葉おけに牛のよだれがつくことはありません。掃除したり、藁を敷いたりする必要はありません。牛さえいなければ、牛舎はきれいなままです。

この飼い葉おけは、私たちの心を表しています。そして汚れてしまう飼い葉おけは私たちが誰かを愛そう、誰かにイエス様を知ってもらおうとするときに必ず感じる、傷や負担や挫折や拒否されたときの悲しみです。愛する覚悟を持つとき私たちはこのような思いになることがあります。
うまく伝えられなかったという後悔もあります。そんなことばっかりですよね。

この個所はこう続きます。
しかし、牛の力によって収穫は多くなる。牛を飼えば、飼い葉おけは汚れます。しかし、汚れた飼い葉おけという私たちの心が汚れれば、汚れるほど、私たちの負担や挫折が多ければ多いほど収穫は多くなるということです。

思い出してください。
イエス様はお生まれになったときどこに寝かせられましたか。
そうです。汚い飼い葉おけなんです。イエス様はお生まれになったその瞬間から、私たちの苦しみや悲しみや負担や挫折の中に来られたんです。イエス様の十字架をもう一度思い出してみましょう。イエス様はエリヤのように天にあげられたわけでも、美しい最期であったわけでもありません。最もむごいとわれる十字架刑に処されたんです。鞭うたれ体はボロボロです。全身から血が滴っていました。神の御子とは到底思えない姿です。
でも、イエス様は、その身をもって、その人生をもって私たちに教えてくださっているんじゃないですか。

人が生まれていいようなところではない場所でお生まれになり、罪びととののしられ、愛する人たちから裏切られ、鞭うたれ、十字架に貼り付けになっても、イエス様は人の救いを願われたんじゃないですか?どれほど汚れようと、汚されようと、痛めつけられようとイエス様は私たちの模範となるために、私たちが素晴らしい、義と平安の実を結ぶために、その身を犠牲にして、模範を示されたんじゃないでしょうか。

私たちの痛みや苦しみは、すべて神様が責任を取ってくださることを信じましょう。だから、私たちも愛されているものとして愛することを恐れずにいましょう。そして、愛する覚悟をもって信仰を全うさせていただきましょう。