メッセージ 7/2   互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。1テサロニケ5:11

説教題 愛するということ〜愛することの目的〜 牧 師
聖書箇所
ヨハネ15:9〜17
佐藤 龍平
説教要旨

私たちはなぜ愛するのでしょうか?はっきりさせる必要があります。

ヨハネ3:16なぜ私たちは愛するのか?聖書にはなんと書いてあるかというと、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに・・・」
マタイ19:21「もし、あなたがたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」

神様の愛の性質とは、このみことばにもあるように「与える」ということです。

なぜ、私たちが愛するのかというと、一つは、愛するということ、愛を与えるということが神様の性質であり、神様は私たちに愛するということ、愛を与えることを求めておられるからです。

マタイ22:39あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。

Tヨハネ4: 11神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

愛することが、神様の私たちに対する教えであることはわかってもらえたのではないかと思います。では、もう少し、深めていきたいと思います。
愛することは私たちに何をもたらすのでしょうか?

ヨハネ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
このみことばの前にこのようにあります。
11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

私達はなぜ愛するのか?二つ目は、私たち自身が愛することで喜びに満たされるためです。イエス様は愛することに喜びを見出されました。だから、私たちも愛することに喜びを見出すためです。私たちは愛することで神様を体験し、神様の喜びを自分の喜びにすることが出来るのです。

人を大切にすることで幸せを感じることができないなら、何に幸せを感じることができるのでしょうか。人を愛することは、その相手のために、何かを与え、手放し、失うことでもあります。しかし、受けるよりも与えることの方が幸いなんです。

僕は、牧師として聖書の知識、みことばを蓄えることをします。しかし、それは蓄えるだけで終わってしまったら、無意味なものです。使わないとまさに「宝の持ち腐れ」になってしまうのです。

愛も同じです。神様に愛されていることが当たり前になってしまって、愛を受けるだけでは神様が私たちに与えようとしておられる喜びは完全には受けることはできません。愛を受けて、愛することで私たちは、神様の、イエス様の愛を受ける、喜びに満たされるものになるんです。

愛することは、私たちの使命です。そして、愛することが私たちが神様の愛を受け、喜びに満ち満ちるための唯一の道です。

では、まとめに入っていきますが、愛することをさらにもう一歩踏み込みたいと思います。

では、愛することの目的とは何なのでしょうか?私たちは愛することで何を成し遂げようとしているのでしょうか?愛する人が救われて洗礼を受けることでしょうか?日本の救いでしょうか?弟子を養成することでしょうか?奉仕の働きをさせるためでしょうか?

詩編23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
詩篇16:8〜9「私はいつも、わたしの前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、わたしの心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう。」

この個所が何を言っているのか。一言でまとめるとこうなります。
「人生に神がともにおられることは真の喜び」

私達が誰かを愛する、また、互いに愛することの目的とは、神様と共に生きることは喜び満ちた人生であるということを知ってもらうためです。私たちがあったその人が、1日の終わり、寝る前に、今日あの人に会えてよかった。今日、一緒に時間を過ごせてよかったと思ってもらえたら、最高なことですよね。家族が、兄弟が、子供が、日本が、世界が幸せになること。それが私たちが愛する目的です。

確かに、洗礼も大切です。日本が救われることも、家族が救われることも大切です。しかし、救われても、教会から離れ、信仰から離れてしまう人もたくさんいます。なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか?それは、神様と生きることに幸せや喜びを感じないからです。

聖書は神と共に生きることが何よりも勝って幸せなことだと教えています。神様に愛されていることを私たちが隣人を愛することで、人は初めて、神様と生きることのすばらしさを実感するのではないでしょうか。

つまり、愛を表す、愛する、愛を与えるということが最終的な目的ではないんです。愛するとは、神と共に生きることが喜びであり、幸せなことだと知ってもらうための手段なんです。その幸せを知ってもらったとき、知ってもらいつづけるとき、信仰の芽が芽吹くのではないかと思います

難病のことどもその家族を支援することをテーマパークが行っている話。
辛い状況の中にある子供と家族に喜んでもらいたい。でも、多くのアトラクションで車いすは無理、病気を持っていたら無理といわれる。ルールを守ることが目的になってしまっている。目的は喜んでもらうということ。そのために何ができるのかを考えなければならない。
どう愛したらいいかを考えて、いきなりみことばを語ってしまったり、神様ってのはねと語ってしまうことは、本当の目的を遠ざけてしまう事がある。
幸せになってもらいたいという目的をヴィジョンをかかげていたら、そこに続く道はたくさんあるんです。

私たちは相手の幸せを願い、祈り、ゆだねて行動を起こすとき、神様は愛する方法を教えてくださるのです。