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7月のみことば |
信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。 |
1テモテ6:12 |
若くして献身し、伝道者テモテに対してパウロが勧めたことばです。 イスラエル国民が、バビロン帝国の捕囚となった後、70年を経てペルシアのキュロス王の宣言によりイスラエルに帰還する時の指導者ネヘミヤ(他にゼルバベル、エズラ)が立てられました。ペルシア王の献酌官のネヘミヤに神は声をかけ、5万人余りの人々が帰還したのでした。 このネヘミヤの祈りと献身は、イスラエルの人々に一致団結を産んだことが記されています。 私たちはこの世界で生かされていますが、全世界の至るところで起きている紛争、災害に一喜一憂する毎日です。テモテに掛けられた今月のことばは、主イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪赦され神の愛に包まれて平安のうちに生きている私たちに、『戦い』があると述べています。むしろ警告と言って良いでしょう。 まず、分かりやすい「金銭を愛する」という誘惑があると述べています。このようことを避け、義(正しいこと)、敬虔(神を畏れること)、信仰(信じ続けること)、忍耐(現実逃避せず期待し続ける)、柔和(性質態度が柔らか)を追い求めていくことが、戦いに勝ち抜くことなのです 思いかけない幸運か努力することなく自然に手に入る『棚ぼた』ではないのです。あらゆることを駆使していかなければ獲得できません。神様、あなたはこのために神に召し出されたのですよ。そして、神の召しへの告白は、正にキリスト様の姿を見るようですと。 選んでくださった神様、召してくださった神、人間を創造された神への私たちの当然の姿、神様の素晴らしさを表すことになのです。それを追い求めて行く者とさせていただきましょう。 神様の祝福豊かでありますよう心からお祈りします。 |
濱野好枝 |
6月のみことば |
確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。 |
コリント人への手紙第二3:15-16 |
旧約聖書に、モーセがシナイ山で神より十戒(二枚のさとしの板)を与えられ山から降り、イスラエルの民の前に出てきた様子が記されています。 モーセは主と話したため、顔の肌が輝きを放っていました。モーセは気がつきませんでしたが、イスラエルの民はその輝きのためにモーセに近づくのを恐れたのです。 モーセは、アロンを始め族長の頭たちを呼び寄せ、民を呼び寄せ、神がシナイ山で告げられたことを命じました。その後顔に覆いを掛けたのです。 律法を語るのに、民の前に出るのに顔に覆いを掛けるとはどういうことでしょう。 律法は神の正しさを教えるのですが、神に近づく道は備えてくれません。それなので顔に「覆い」を掛けた状態で神を知るのです。 これに対してキリストの贖いは、罪からの解放だけでなく律法からも解放するのです。その道を見い出すのは、「キリストによって」「主に立ち返るなら」とありますように、律法の終わりとなる為にこの世に降られたキリストによるのみです。 心に覆いが掛けられた状態は、事柄の真相を把握出来ない、心が鈍くなる(理解力が鈍いことです)。 キリストが十字架に掛けられる前夜の最後の晩餐で、『これは、多くの人のために流されるわたしの契約の血です』と新しい契約です。と語られました。人間は不従順、違反、堕落のために古い契約(行いの契約と呼ばれる)に縛られていましたが、主に十字架と復活を信じ、血の契約により覆いを除かれ、自由になり主の栄光を反映しつつ栄光から栄光へと変えられるのです。正に神の御霊の働きなのです。 神が、私たちに備えてくださいました。素晴らしいです! 祝福をお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
5月のみことば |
確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。 |
コリント第二の手紙5:4 |
人間は肉体と霊からなる存在ですが、多くの人は人間は死んだら終わりと考えています。肉体が死ぬと、後は何もなくなる。心とか精神といったものは考えの範疇にはありません。しかし、キリスト教や他の宗教、そして一部の科学者さえ、脳の活動が停止しても人間の意識、正確には「霊」は存続すると信じています。 パウロは激しい迫害を経験していましたので、常に死を意識していました。そのような状況の中に置かれながらも『心強い』と語っています。それは肉体の死が終わりではないことを確信していたからです。 パウロは肉体の死の意味をよく理解していました。幕屋はテントと同じ意味です。仮の宿ですので、畳んでまた使い何回も使います。そのようなわけで破れたり、痛んだりするのです。 パウロは地上の住まいを幕屋と言い、私たちの肉体のことを表しています。この地上の生活は、重荷(悩み、苦しみ、困難、病)を負って歩み続けます。呻くと言い表し、逃げ出すことをせず、いのちによって呑み込まれることを期待すると宣言しています。また、天からの住まいを着せていただくことを望んでいるとも言っています。 そのように力強い宣言できるのは、保証(=手付金)聖霊様が与えられているからだと証しています。 聖霊様が確実に神のプレゼントとして衣を着させてくださるのです。こんなに心強いことはありませんね。ここに信仰が働くのです。 先月三年半の神経膠芽腫での闘病生活を終え主の元に召された横山先生は、召される数日前に奥様の右手とご自分の右手を握り、もう一方の手の人差し指を高く掲げたそうです。それを聞いた牧師は、「私たちは勝利者だ」と宣言したのだと解説していました。 聖霊様は、私たちを真に生きる者としてくださるのです。心強いですね。 祝福が皆様の上にありますように。 |
濱野好枝 |
4月のみことば |
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。 |
ヨハネの福音書14:6 |
この有名なことばは、主イエス・キリストが十字架に掛けられる前、「一粒の麦は、地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」と暗に自ら地に落ちる(死ぬ)と言われ、その後弟子たちの足を洗いました。その後のメッセージがこの14章から17章まで、告別説教として語られたのです。 きっとイエス・キリストと共に居ることが最高だと思っていた弟子に、「わたしは去って行く」とイエスが語られ、動揺は隠せないと思います。 居場所を準備しに行く。ということは、天国というのは昔からあったのではなく、イエス様が先駆けとして準備しに行かれたのです。 ここに語られているイエスのことばには、正にサタンとの決戦とも思われる(ヨハネ13:21)張り詰めた空気の中の言葉ですので、背筋が延びる様です。 居場所を準備しに行くと話されると、弟子がどのようにしてその場所にいったら良いのですかと質問しますと、『わたしイエス・キリストを通して行くのです』と答えられました。バークレーはこの事を分かりやすく話しています。 ―もしあなたが道を教えてくれと言って、「あなたは、あの教会の横を通って何番目の角を右に曲がって………。」このように道順を教えてもらって、それで安心して行けるでしょうか。心騒ぐのではないでしょうか。しかし、もし教えてくれる人が“ああいいですよ。私についていらっしゃい。一緒に行きましょう。"と言ってくれれば、あなたは安心ですね。 イエス様は道順は教えないが、『わたしは道である』から『わたしを信じなさい』とおっしゃったのだと―バークレーは説明しています。 サタンと向き合っている厳しい中に、私たち(弟子たち)に対して、共に道を歩いて行きますよ。と語ってくださったのです。 死の力を打ち破り、いのちに満ち溢れる生涯を保障するわたしイエス・キリストです、と。 『大丈夫』ということばほど心身とも暖まるものですが、永遠のいのちを確約してくださる神様の私たちに対する熱き視線は、心踊るものがあります。このように 主イエス・キリストの甦りは全世界を震感させるものとなりました。あなたは今日このみことばを受けられませんでしょうか。 祝福をお祈り致します。 |
濱野好枝 |
3月のみことば |
十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。 |
1コリント1:18 |
最初の人アダムが罪を犯してから、この地上に産み出されてきた人間は原罪を持つことになります。この原罪とは、創造主から離れ、自分の基準で生きていく、つまり自分を神とすることです。 創造主なる神を仰ぎ見て歩む、何の不足もなく歩んでいたのに、罪は私たちを神から引き離す結果となってしまいました。 創造主である神は心を痛み続けて来ました。神は罪を完全に処罰することをサタンに宣言しました(創世記3:15)。その思い、ご計画が二千年前のキリストの十字架の処刑でした。此以外の方法はありませんでした。 神の一人子なるイエス・キリストを地上にお遣わしになり、人としての生活をし、原罪を身に負い、その罪の処罰のため地獄にまで降ってくださり(呪われた者となったということ)、死なれたのです。 この十字架のことばを拒み嘲る人もおられるでしょう。 神にとって、身代わりのいけにえ無しに罪人を救うことは、神の正しさ(義)に反することです。血の内に命があるので、罪に汚れた私たちの全身を行き巡っている血は、一度も罪を犯したことがない清い血をもって洗っていただければなりません。洗っていただく方法は、この十字架のことばを受け入れること以外の代案はありません。 神から命じられたと思っていましたが、イエス・キリスト様は『自分からいのちを捨てるのです』と能動的に積極的に自らをおささげになったのです。変な言い方ですが、その心意気に父なる神は、キリストを甦らせ神の右の座に着かせられました。 エペソ人への手紙1:4-5では『世界の基が据えられる前からキリストにあって私たちを選んだ……。』と神は叫んでおられます。 皆様の上にこの神の愛が注がれますようお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
2月のみことば |
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 |
エペソ人への手紙3:16 |
今年八王子教会は、大きな力を持ち給う神を祈りの武器により実体験を重ねていくことを目標に掲げました。絵に描いた餅とならないよう実践していきたいと歩み出しました。 1月の「正しい人」、つまり罪から離れて、神様と歩調を合わせて行くようにします。そのような心構えができますと、荒野でサタンの誘惑を退けられた主に御使いが仕えた如く、聖霊なる神が我が内におられる経験を味わいます。 今月2月は、パウロの祈りをお手本とさせていただきます。 内なる人はギリシャ人は熟知し、使い慣れた言葉です。新約聖書はギリシャ語から訳されていますので、日本人は耳慣れない言葉です。内面とは使いますが、魂、霊的なことに日常的に、習慣として使わないのではないでしょうか。 何が良いことか、正しいことか、理性、良心、意志あらゆる領域に神の支配が及ぶように、私たちのうちに住まわれるのです。 強くされる秘訣は、私たちの人生全般、全領域にキリストに住んでいただくことです。私たちが「主よ。お入りください」と願う時だけ、キリストは入ってこられるのです。愛そのものでおられる御方は、時代を超えて広さ、いかなる敵も侵し得ない高さ、被造物には測り難い深さ、永遠へと続く長さを理解する力を持つようにしてくださるように。それも満ち溢れるほどの愛を体験することができますように願っておられます。 祝福をお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
1月のみことば |
ですから、あなたがたは癒されるために互いに罪を言い表し、たがいのために祈りなさい。正しい人の祈りひたらくと大きな力があります。 |
ヤコブの手紙5:16 |
新年おめでとうございます。 新しい年を主は授けてくださいました。主の御手と、愛する皆様のお祈りに支えられて共に歩んでいきたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。 昨年以上に、注いでくださる主の慈しみと、憐れみと恵みを受け止めることができるように、年頭に当たり主からいただききましたみことばが上記のものでした。 ヤコブは迫り来る自分の不幸が押し寄せる時が来ている。―今までの不誠実の行いの刈り取りをしなければならない時―と告げています。 私たちは正しい人を不義に定めることがありましたでしょうか。有りました。私の罪は、イエス・キリストを十字架に掛けてしまったことでした。正に正しい人を不義に定めたのです。(この事に気づく人はあまり多くはありません) また、不条理と思われることに出くわしてきました。その様な時はどのようにしたら良いでしょうか。聖書は、『あなた方も耐え忍びなさい、耐え忍びなさい』と語られ、ヨブの忍耐を思い起こすようにと勧めておられます。 日々誠実に自分のため、家族の為に祈り、礼拝を捧げているヨブは一時のうちに子ども、財産全てを奪われてしまいました。そのときのヨブのことばは『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』と言いました。 尚もサタンの挑戦が続きます。ヨブの肉体を打つことを神に許可してもらい、出ていきました。ヨブは全身悪性腫物だらけにされ、土器のかけらで身体を引っ掻くほどにされました。そばにいた奥さんは「神を呪って死になさい。」と辛辣なことばでなじったのです。ここでもヨブは『私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。』と言い唇によって罪に陥らなかったのです。 幸いを神から受けていると思っている人はどれだけでしょう。自分の努力頑張りの結果幸いを手に入れているとほとんどの人は考えているのではないでしょうか。その頑張りで築いたものはやがてがらがらと崩れて行く危険を孕んでいるのです。 生きて働いておられることを人間に解ってもらうために、ひとり子であるイエス・キリストをこの地上に贈り、人間と同じように辛苦を味合わせ、罪の力である死を十字架によって滅ぼしたのでした。そればかりでなく復活され、信じる者の初穂となられたのです。 命の元なる神様との交通を実現してくださいました。 働くと大きな力を発揮する義人の道を求めて2025年を歩ませていただきましょう。期待に胸膨らみますね。 皆様の上に、新しい年に祝福が豊かでありますようお祈りします。 |
濱野好枝 |