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2018年度
12月のみことば

 恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。

 今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。ことば方こそ主キリストです。

 

 2000年前寒い冬の晩、イスラエルのベツレヘムの野原で野宿しながら羊の群れの夜番をしていたところに現れた天の使いのことばでしす。

 天の軍勢、天使の集団が暗い夜空に現れたのです。想像してみて下さい。

 眩さ、輝き溢れる空。その光景に羊飼いたちは驚きを通り越し、恐れに畏れたのです。

 驚きは思いも考えもよらぬ事が起こった時の表現です。

 恐れ(畏れ)は超自然であり、人間ではない超越した方への表現です。

 私たちは日々恐れに襲われています。

 しかしクリスマスの出来事は、全人類に対する神様の溢れる愛の顕れなのです。

 驚き、恐れに覆われていた羊飼いに語られ、励ましてくださった神様が現在この地に生かされている私たちに「恐れることはありません。」と語ってきださいました。

 嬉しいです。嬉しいですね。ハレルヤ

濱野好枝

11月のみことば

 あなたがたは 霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。

ピリピ人への手紙1:27b-28

 私たちが福音にふさわしい生活をするとは。

 かつての神も知らない、神を知ろうとしない、認めようとしない生活からエレミヤ書31:3「遠くから近づいて私に現れた。永遠の愛をもってあなたをあいした」にあるように、神が近づいて来てイエスキリストの十字架による救いを通し、人間の本来の姿に立ち返ることを成し遂げてくださいました。

 古い自分から本来神が造られた霊性をもった人間として生活していく。

 その時向かうところは一つ、神の備えられた道を前進するのみです。一つの目標に心を合わせことができます。

 そのような群に反対者が攻め込んで来ます。

 侵略するために脅かし、威圧的態度、汚く罵る等あらゆる手段を持って来ます。

 私たちがたじろぐことなく、一固まりになって結束し団結している時まさにローマ兵の隊列-テストゥド‐のようです。100人単位の兵が自分の盾を前方と上方また左右の壁のようにスクラムを組み、亀のようにのろのろと前に進む姿です。

 脅かされてたじろぐとは、ギリシャ語では総崩れ、大敗走との意味で、私たちを神が確かに救って下さったとの確信に基づき、たじろがない、驚かない、揺るがないことは反対者にとって滅びとなります。

 これはまさに神の力に他なりません。

濱野好枝

10月のみことば

 キリストは自ら十字架の上で 私たちの罪をその身に負われた。

1ペテロ2:24

 今月は積極的に生きることを考えてみたいと思います。

 先日「心の生活習慣病」−人を正したい症候群という話を聞きました。

 生活習慣病はよく聞くことばですが、心の生活習慣病とはなんだろうと、よく話を聞き進むうちに解かってきました。“でも”を多発する人がかかる病だそうです。

 相手の言うことをそのまま受け止めることをせず、正したり、教えようとしたり、補ったり、別の意見を述べようとする心の姿勢が垣間みられます。

 イエスキリストの場合、決して教えよう正そうなどと、ことばでしめすことなく、積極的行動をもって私たちに示されました。

 それも極悪人のみに執行される十字架刑という方法で。

 何一つ罪を犯したことのない方が、私たちの罪を一身に負って成し遂げられました。

 イエスキリストの生涯は父なる神のみ心に添ったものでした。

 父なる神が願っておられる全人類の救いを成就する使命を与えられていることをよくご存知で、33才の人としての生涯を全うする中で何時もみ心を行うことを唯一の目当てに歩み続けられました。

 悪魔の誘惑にも、攻撃してくる宗教家、世の権力に屈することなく積極的に、自発的に十字架の道を歩まれました。

 使徒パウロが証しした「受けるより 与えるほうが幸いである。」のことば通り実践されました。

 先ず受け止めること。次に積極的に歩むことにチャレンジする月としたいと思います。

濱野好枝

9月のみことば

 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
 あなたがたが白髪になってもわたしは背負う、わたしはそうしてきたのだ。
 わたしは運ぶ、背負って救い出す。

イザヤ46:4

 バビロンに捕囚されていたイスラエルの民に向かって、バビロン王国は、ベル、ネボという偶像に頼り頼んでいる。その偶像は運ばれる神だとイザヤは語りました。

 ここにまことの神と偶像の神について、まことの神は、負う神担いでくださる神。

 偶像の神は、負われる神担がれる神であると語っています。

 「胎内に居たときから担がれ、生まれる前から選ばれた者よ」と私たちの神は、私たちを造られ救ってくださる方なのです。

 私たちが負う必要はないのです。生まれ前から、生まれてから白髪になるまで背負ってくださる、末長く導いてくださるとの約束です。この神に信頼せよ。「心にとめよ」−罪を認めよ−と。

 自らまことの神以外の何かに委ねているとすれば、九月敬老月間に顧みるのは如何でしょうか?

濱野好枝

8月のみことば

 主が民の傷を包み、重い打ち傷をいやされる日、月の光は太陽の光になり、太陽の光は7倍になり、7つのひかりとなる。

イザヤ30:26

 月は自ら輝くことは出来ません。太陽の光を受けて輝きます。

 神はは私たちの傷を包み、重い打ち傷をいやしてくださるその時月が太陽のように自ら光を発つようになり、太陽は7倍の輝きを増して輝きわたる。7倍という数字は完全数で完全な輝きということです。

 神は全てのものを造られた創造時の完全な回復を遂げる約束です。

 当たり前は、全人類が罪を犯す前の状態、神のみ顔を見つつ歩んでいた時を指します。

 すべての人は罪を犯したので神の助けを受けることが出来なくなりました。

 人間の方から、「俺に関わらないでくれ。放っておいてくれ。と言うようになって行ったのです。その結果と言いますと、心は暗くなり、自分の力を頼り、他人を傷つけながら歩んで来ました。

 病人なのです。この事に気づいた人は幸いです。

 『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』

 病んでいます。と言う人の近くすぐそばにおられ、救ってくださるのです。

 偉大な医者であるイエス・キリストは私たちの傷を包み、重い打ち傷を十字架上で身代りの死によって、癒してくださいました。

 『その打たれた傷によって、、あなたがたは癒されたのです。』

 そのいやしの業、回復の業は、真の人として歩むことができます。

 月や太陽が創造時の輝きを放つ如く、私たちの人生を祝福に溢れたものにされます。

 私は傷ついています、人として当たり前の歩みを、神の御顔を仰いで行きたいです。とキリストに告白して、祝福の人生を歩みましょう。

濱野好枝

7月のみことば

 千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。

詩篇91;7

 この詩篇の1節は「いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る。」とあります。

 全能者の存在を認めている作者は、自分の右、左に千人万人の敵が押し寄せてきて、敵は倒れ滅びても自分に災い災いは近づかない。泰然自若としていられるのです。

 モーセの祈りと知り、200万人のイスラエルの人々をエジプトから脱出させることができたことに納得です。

 私たちの日常は人間関係、つまり横のつながりを意識して生活していることに気が付きます。

 いと高き方に目を向けることによって、昼夜を問わず神の羽で覆っていただき、翼の下に身を避けることができるのです。


 −鷲のその素雛を呼び起こし、その子の上に舞い駆けるごと主はそのみ翼を差し伸べて、落ち行くわれを担いたまえり。―

 賛美にも歌われています神の守りと助けは、完全完璧で、暖かく優しさに溢れています。

暑い季節を迎えました。聖書のみことばにより、全能者の陰に宿って涼しく過ごしましょう。

濱野好枝

6月のみことば

  それからイエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。
 『キリストは苦しみを受け、3日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』
 エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。

ルカ24:46−48

 キリストが復活し、天に帰られ約束の聖霊が降りました。教会が誕生し、エルサレム、他国サマリヤ地の果てまで、イエス・キリストが伝えられ続けていきました。

 このような破天荒な出来事は、キリストの一番弟子であったペテロさえも理解できませんでした。
 神の幻―天から風呂敷のようなものが降りて来て、その中にあらゆる動物、這うもの空の鳥が入っており、神がペテロに屠って食べなさい。と言われ、
 ペテロは「私は聖くない、汚れたものは食べたことがありません。」神は『神がきよめた物をきよくないと言ってはならない。』と語られました。
 −が与えられなければ、ユダヤ人以外の人がキリストを受け入れる、神の恵み救い祝福、、聖霊の注ぎを受けとることは、納得できなかったのです。

 聖書の神は、偏ったお方ではなく、全ての人に祝福、愛を注がれるお方なのです。

 父なる神はご自分の太陽を悪人にも善人にも上らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

 罪人である人間の狭い考え、僅かな知識などでは測り知ることのできない神の業、働きなのです。

 今に至るまで働き続ける神のみわざに目を留めていきましょう。

濱野好枝

5月のみことば

 わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠のいのちへの水が湧き出ます。

ヨハネ4:14

 室町時代、“枯れ山水“と呼ばれる庭園様式が開花しました。水のない庭で、池や遣り水などの水を用いず、石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式です。例えば白砂や小石を創いて水面に見立ることなどでした。庭園に引く水路のなかった京都東山文化です。

 明治に入り琵琶湖から水を引き(疎水)現在見られる庭園が造られるようになったのです。

 今月のみことばで、イエス・キリストは昼間井戸に水を汲みに来たサマリアの女性に、「わたしに水を飲ませてください。」と言われイスラエルの人々が決して口を聞かないサマリヤの人と会話したのです。「あなたが水を飲ませて下さいと言う者が誰か知っていたら、あなたの方から求めたでしょう。」「わたしは活ける水を与えることができます。活ける水は渇かない、心の内から湧き出し、流れ出し、潤し満たし続けることが出来ます。『それを与える為に、わたしは来ました。わたしに求めなさい。』『わたしはあなたの人生を潤し、永遠に責任を持って導きます。』

 このように私たちに話しかけてくださる方は居られません。

 深緑に満ちた5月、祝福をお祈り致します。

濱野好枝

4月のみことば

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

ヨハネ12:24

 今年のイースターは4月1日です。毎年日にちが変わります。

 イースター前はキリスト教会では受難週で、キリストの十字架を覚えて過ごします。

 イスラエルでは過ぎ越しの祭り(除酵祭)が行われます。今から3500年も前、エジプトに寄留していたイスラエルの民がエジプトの圧政から力強い神の力によって脱出させていただいた事を覚えて祝う祭りの時です。

 イエスキリストが、ロバの子に乗って エルサレムに入場したのが、パームサンデーと呼ばれ、3月25日の日曜日でした。人々は熱狂的に「ホサナ、主のみ名によってこられる方に。イスラエルの王に。」と、棕梠の枝を振り歓迎しました。

 その様子を見ていた、イエスを何とか、排除しようと企んでいた祭司長、律法学者たちは「皆こぞって、人々はあの人の後について行ってしまった。」と嘆いていました。

 ブラックホールに吸い込まれていく映像を見たことがありますが、まさにこの時は皆、イエスキリストに吸い込まれる如く大変な状況でした。

 その様な状況にあっても、イエスキリストはご自分の為すべき役割を遂行することに進まれました。

 人の子が栄光を受ける時が来ました。と
@人の子が犠牲的な死を遂げるー十字架の死ーは避けることの出来ない神のご計画であると受け止めておられた。
Aこの神のご計画を為し遂げることは、いやいやながらではなく、進んでするのです。と話されました。
B十字架の死をキリストが為し遂げることにより、父なる神の栄光 が来るのだという確信をいただいた━天からの声が響いた。と聖書に書かれています━

 イエスキリストが、一粒の麦となって死ぬことによって、全世界の人々が主イエスのもとに来る。

 素晴らしい業がイースターをとうして成されました。

 聖書
━わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引きよせます。━

濱野好枝

3月のみことば

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

Tコリント1:18

 今年のイエス‐キリストの復活を祝うイースターは、4月1日です。

  復活の前に死があります。その死は十字架の死でした。
なぜ十字架なのでしょうか?当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、死刑の方法はローマ帝国の法律に準じていました。極悪人が処刑される十字架刑に、二人の強盗殺人犯と共にイエス・キリストは磔にされました。

 大祭司が、「お前は神の子キリストなのか。答えよ。」『あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に人の子が力ある方の右の座につき、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。』

自分を神と同じとし、神を冒涜した。死に価する。と最高法院全体で決定しました。民衆は「十字架につけよ」と連呼しました。それからイエスの顔につばきをかけ、拳で殴ったり、平手で打ったりしました。

 ここまでは人間が関与してまさに正しい事をしたと豪語している様子が書かれています。

 この事はすでにキリスト降誕前二千年前からも神は預言されておられました。キリストが、唾をかけられたことも、強盗殺人犯と一緒に木にかけられることもすべて預言されてました。えっ!と驚きますね。

 冒頭のことばの後に、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
と書かれています。

 神は今に至るまで、歴史の全てに関わり、動かしておられることを、わたしたちは見ることができます。

 この神に期待して人生を歩む決断をおすすめ致します。

濱野好枝

2月のみことば

 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。
 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。  

Uコリント3:18

 上記の聖書箇所で、私たちはみな顔の覆いが取り除かれたていると神は言われます。

 イザヤ書には、その覆いは罪で、それが私たちと神との隔たりとなり、神が見えないのだと言っています。

 私は1968年イエス・キリストを救い主と信じて、洗礼を受けクリスチャンになりました。
 その時社会人となり、月給18000円の中から皮表紙の聖書を買いました。当時八王子教会牧師でありました谷中広美師より次のみことばをプレゼントされました。

 「幸いなるかな心の清き者 。その人は神を見ん。」(文語訳)

 罪を取り除かれ、神に赦していただいて、顔の覆いが取り払われ、神を見ることが出来る。

 私たちの力、努力では不可能であった『変えられる』という驚くべことがおこるのです。

 変わりたい。変わりたいと言っても所詮挫折し諦めるパターンの繰返しです。
 神はそのような私たちを哀れみ、ひとり息子イエス・キリストをこの地上に降してくださいました。

 AD2018年のADが、キリストが確かにこの地上に来られた証拠ですね。神の栄光のあらわれであり、神の本質の完全な現れで、聖書の力あるみことばによって万物を保っておられます。

 イエス・キリストを信じてた者に、神の充ち満ちたものを私たちに反映してくださり、更に更に、もっともっと素晴しさが反映できるように変え続けてくださいます。

 ついにイエス・キリストと同じ姿に変えてくださるとの約束です。

 私たちの外側ではありません。

 本質が変えられるのです。愛する心、親切、善意に受け止め、誠実、忠実な者になるのです。

 これは聖霊なる神の働きによると告げています。

 この地上で沢山の祝福喜びに満たされるだけでなく、キリストが甦られたように、私も甦える(栄化される)のです。

 『られる』がキーワードです。この力をいただきましょう。

濱野好枝

1月のみことば

 見よ、なんという幸せ なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって ともに生きることは。
主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

詩篇133:1-3(2017年聖書)

 新年おめでとうございます。
新しい年が与えられ、嬉しく、また清々しい気持ちになりました。
昨年も自らの回り、国も、世界中も色々なことが起こりました。
今年も慌てず、全てを新しくすると宣言される神に拠り頼んでいきたいと願います。

 今月のことばは
常に周囲の敵、妨害に悩まされ続けているイスラエル、神のことばを託されたイスラエルに、永遠のいのちに与る方法、手段を語られておられます。同時に人生の荒波にもまれ、悩み苦しむわたしたち全てに向けられて語ってくださいました。
神の家族として兄弟が一つになって共に住む、神を礼拝する姿、とても温かく、和やか、フレンドリーな様子が目に浮かびます。そのような光景を思い描いてみてください。

 天地創造で、人間を創られた神は、「人がひとりでいるのは良くない。」「ふさわしい助け手を造ろう。」と思いエバ、女性を造られました。
ソロモンの箴言では「三つよりの糸は、簡単には切れない。」と書かれています。
日本でも毛利元就の三本の矢が有名ですね。
そのように、二人より三人、三人より大勢が、心を合わせ、睦あう姿はとても麗しく、素敵です。
そのような場所、交わりにとこしえのいのちの祝福を注いでくださるのです。
これは神の権限で、祝福せずにはおられないということではないでしょうか。

 ことしも、神の任職の油が、祭司の頭から顔、髭、衣のすそにまで下るように皆様の上に豊かでありますことをお祈りいたします。

濱野好枝

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