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2020年度
12月のみことば

 主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

イザヤ書7:12

 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

イザヤ書9:6

今月のことばは
 今から2700年も前、イスラエルのイザヤという預言者が語ったことばです。
 私たちはもちろん、全ての子どもたちが楽しみにしているクリスマスは、救い主(神がともにおられる)が、男の赤チャン(みどり子)として、場所もベツレヘムに生まれると。又、処女が身ごもり、出産すると。

 2000年前聖い、義なる(正しい)神は結婚という方法ではなく、赤ちゃんをこの地上に送り出してくださいました!!神様はイザヤ通して語られた通り、一点も違うこと無く実現されたのが、クリスマス(救い主イエス・キリストの降誕)です。驚くばかりです。

 神様はこの事を徴として仰せになりましたが、この徴を受けとめて、救い主イエス様にお会いになった人は、次の数人の人でした。
『お言葉通りになりますように』と応答したマリア、夢で神様のお告げを受け、受け入れたヨセフ、数人の羊飼い、3人の博士たち。

 私はその場に居ませんでしたが、信仰の目をもって見、信じ、救い主のお誕生を心から喜んでおります。
 コロナ禍で、一緒に集い、皆で祝うことの出来ない今年は、迫害の中にいるようで、大変辛くありますが、インターネットというツールで 、クリスマスの喜びを分かち合うことができています!

 神様が3月に私に語られたことばがあります。
 『わたし(イエス・キリスト)を遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。』ヨハネ6:39
 パンデミックにより、私たちは多くのものを失いました。
 命を奪われ、職を失い、痛烈な人々の批判を受け、会話も自由に出来ない不便な日々を強いられています。
 しかし、「不思議なる神」により、罪赦されていることを喜び、失うのではなく、むしろ永遠の命を得て、復活の希望に燃えていることを思い、ハレルヤ♪

 10人に満たない人々に祝福された2000年前のクリスマスではなく、全世界すべての人でお祝いするクリスマスでありますことをお祈りします。

濱野好枝

11月のみことば

 あなたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。
 それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しい裁きがあることの証拠です。

Uテサロニケ1:4b-5a

 私はイエス・キリストが再びこの地に来られることを信じています。又、その日が速やかなることを日々祈り続けています。

 今、そのことを思いますと、私が祈っている祈りは「早くこの地上に神の正しい裁きを与えたまえ」ということなのです。

 聖書は告げています。迫害や苦難に耐えながら信仰を全うすることにより、神は私たちに、神の国をプレゼントしてくださると約束しておられます。

 “迫害”とは、キリスト信仰のゆえに福音に敵対する外部の人々から、キリスト者に加えられる圧迫や苦しみである。

 “艱難”とは迫害やその他のときに、キリスト者が出会うあらゆる試みや困難を含む一般的、包括的表現である。

 このように迫害や艱難さえ、神は用いてくださる。

 苦難と苦悩にあえぎながら人生を送ったヨブは、「私は、肉を離れて神を見る。」と言いました。

 又、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりにの上に立たれることを。」と言い、必ず贖い主キリスト様は地の上に立たれる、再臨する。と 神の力強い御手に依り頼む生涯、神を愛する生涯は確実に“完全な救い”に至るのです。

 旧約聖書士師記にデボラの歌が記されています。

 「このように、主よ、あなたの敵が皆滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」

 太陽は中心部から輝いています。

 神が太陽を創造されたのは、空の見栄えを良くするためではなく、地上の生命を維持するためです。

 今月も限りない祝福が皆様の上に注がれますように。

濱野好枝

10月のみことば

主はその御目をもって、全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。

2歴代誌16:9

 2歴代誌14章から16章に渡って、南イスラエルユダ王国の王として、bc910年から41年間統治したアサ王の記事が記されています。
即位後10年間は、平穏でありました。
それは、彼が彼の神主がよいと見られること、御目にかなう事を行ったからでした。
その代表的な事柄は、クシュ人ゼラフが100万の軍勢と300台の戦車を率いて出陣し、マレシャまで攻めてきたとき、勝算の見込みのないことを覚え、主に呼び求めたことでした。
「主よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりはありません。主よ、あなたは私たちの神です。人間があなたの力行使することのないようにして下さい。」と。 神はこの祈りに応えて、アサとユダヤの人々の前で、クシュ人を撃たれました。

 この当時アサは賢くも、神と近い関係を持つ人々を歓迎し、その話に耳を傾けました。
アザルヤもその一人でした。
その謙虚な姿勢は、ユダの人々からの尊敬の念をおこし、治世15年には、エルサレムに人々が集い、非常に多くのいけにえが捧げられて礼拝を行い、神と契約を結び、主に誓いを立てるという素晴らしい光景が繰り広げられました。

 しかし、治世36年に、イスラエルのバシャがユダに攻め上ってきて、塁を築き、南アサ王のもとに出入りできないようにした時のことです。
アサは、アラム王ベンハダドに賄賂を送り届けて、同盟を結び、助けを求めました。
その時、予見者ハナニがアサ王のもとに来て、「あなたはアラム王に依り頼み、あなたの神主に依り頼みませんでした。」
「治世10年の時、主がクシュ人に勝利を取ってくださった事を思い起こしなさい。」と忠告しました。
 そこで、*今月のみことば*を語りました。
「あなたはこのことについて愚かなことをしました。これからあなたは数々の戦いが起こるでしょう。」
アサ王は神が遣わしたこの予見者に対して怒り、彼を牢に繋いでしまいました。また、民には怒りをぶつけるという態度をとったのです。
この後、足が動かなく、重病となっても主を求めなかったと記されています。

 神に対する過ちを認め、悔い改めるように。
また、忠告してくださる方の忠告を受け入れて、身を低くして神の赦しをいただいて、たゆまず信頼して歩むことを聖書は語っています。

 神様の祝福が豊かでありますよう、お祈りいたします。

濱野好枝

9月のみことば

 主よ、偉大さ、力、耀き、栄光、威厳は、あなたのものです。
天にあるものも地にあるものもすべて、主よ、王国もあなたのものです。
あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。

歴代誌上29:11

 これは、ダビデ王の祈りの一部です。
 ダビデは、アブラハムから数えて14代の人で、イスラエルの二代目の王となった人です。
 アブラハムーイサクーヤコブーユダ(4男)ーペレツーヘツロンーラムーアミナダブーナフションーサルマーボアズーオベデーエッサイーダビデです。
 上記のように、信仰継承が着実に、確実になされてきました。
 素晴らしいことであります。

 ダビデはその子ソロモンに王位を譲る時、神殿建設を含めた「遺言」を伝えるため、イスラエルのすべての長、つかさ達を招集しました。
 ダビデはエッサイ家の末子であったが、神の特別な選びをいただき、油注がれ王となりました。
 ソロモンも、兄が数多くいたが、神がソロモンを選び、次期イスラエルの王として立てられる準備が、ダビデによって始められました。

 その中で、ダビデは全会衆に向かって
 「わが子ソロモンは、神が選ばれた、ただ一人の者であるが、まだ若く、力もない。しかし、この工事は大きい。なぜなら、この宮人のためではなく、神である主のためのものだからである。
 私は全力を尽くして、私の神の宮のために準備をしてきた。-------------私は神の宮のために献げる--------------すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。すべてはあなたのものです。」

 このように、国民のため、子どものために、神に祈る者でありたいと思います。
 すべてが神から出ていることを自分の基礎に置いてること、その神に全幅の信頼を寄せて歩みたいと思います。
 また、自発的に善を行う者、ポジティブに、ダビデのように神の前に謙虚にあることができるよう、導きを願う者です。
 

濱野好枝

8月のみことば

罪の報酬は死です。
しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ6:23

 神の実在の証明は、私=自分がいること。
 イエス・キリストによる救いの証明は、クリスチャンがこの地上にいること、キリスト教会が全世界にあることです。
 神が人を創造された時は、全ての被造物に勝るものとして、神が息を吹き込まれ、生きるものとされました。
 四六時中、神の御顔を仰ぎ見、御声を聞きつつ歩んでいました。
 しかし、罪が人に入り、神様の宣言どおり『死ぬ』ことになりました。
 その上、額に汗をし、働きの糧を得ていかなければならない。女の人は、産みの苦しみを増すという、今当たり前と思っていることが与えられてしまったのです。

 徳川家康の遺訓の一つ
 「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し」は、まさに罪人である人間が歩む生涯を表しています。
 神様はご自身で造ったにんげん、又罪を犯した人間に対して、死=永遠の滅びに追いやることは、とても忍び難いものでした。
 でも、『死ぬ』ということを覆すことは、義である神様は出来ません。
 義の神様の痛み、苦しみは、人を創造したその時の思い、愛と恵みに溢れた存在としていかすことでした。
 神のみこころは、子なる神イエス・キリストをこの世に送り、罪ある者として殺し(最悪の呪われたものとして殺す十字架の死)地獄にまで追いやってしまう最悪のシナリオでした。
 罪のない方が地獄にまで行かれ、私たちを永遠のいのちに与るように復活してくださいました。

 地獄の話は、新約聖書ルカによる福音書に、ラザロと富める人の物語をイエス様が語られています。
 地獄の苦しみは、熱くてたまらない、天国の「ラザロを遣わして、私(富める人)の口に水一滴ください。」とお願いしましたが、
 天国と地獄の隔たりは、宇宙ヘ行くというどころの規模ではない。と神様は富める人に断ったと記されています。
 あなたはこの話を見、読まれて、今月のことばにどのように応答されますか。

濱野好枝

7月のみことば

だれでも先頭に立ちたいと思う者は、
皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。  

マルコの福音書9章35節

 聖書を読みますと、神様が願われていること、又どこを目指して時代を進めておられるかが、少しわかってきます。
 強く感じられたのは、創造者である神は、被造物であり、神様の息を吹き入れられた人間を第一に、大切に考えておられるのだと。

 今月のみことばのマルコ9章全体に溢れています。
 今、この時代は、終わりの日(主の日)に向かって進んでいます。
 信じて、救われた者にとって、希望の日、喜びに満ち溢れる日を迎えるのですから。
 神の独り子イエス・キリストをこの地上に送られ、そのキリスト様が目指したところは、
 十字架の死をもって、全人類を死の呪いから解き放つことでした。

 真っ暗な暗闇(十字架)に進まれる歩みの中で、神様の素晴しさ、真、真理、行くべき道を、この世のあらゆる人々に語り続けられました。

 私たちが一番恐れるもの「死の呪い」は、キリスト様を知らず、信ぜず死を迎えた臨終に、はっきりあらわれます。
 皆さんは、その様な臨終の場面に臨んだことは有りますか。
 私は何度も見ています。
 キリストを受け入れ、信じた 人の臨終での姿は100%平安と希望溢れて、天に凱旋していきます。
 周りの人々に感謝のことばをかけ、賛美しつつ帰天した方々も多数おられました。

 このような神様のご配慮、愛溢れる心遣いを私たちにかけ続けておられる方を、あなたは認め、受け入れますか。

 罪深い私たちに対しての今月のみことばを、あなたはどのように受けとめられますか。

 神様の祝福が豊かでありますようお祈り致します。

濱野好枝


6月のみことば

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

創世記5:24

 創世記5章1 -2節に神は人を創造したとき、神の似姿として人を造り、男と女に彼らを創造された。
 彼らが創造された日に神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた とあります。

 このように私たち一人一人は、神の創造の作品で、神の似姿に造られたことがわかります。
 神の似姿という言葉からは、神が私たちをどれぼど愛しておられるか、「祝福された」と記されていることばからは、どんなに存在を喜んで、又いとおしく思われていたことでしょう。
 しかし、この5章はアダムからノアまでの10人の人々の系図が表されていますが、
……は………年生き。息子、娘たちを生んだ。その生涯は……年であった。こうして死んだ。
この文章の羅列です。

 しかし、その中で
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。と記されています。
無味乾燥の記事の中に、短いですが、潤いのある、温かさを感じます。
又この中に確かに神様の存在があり、神様と共に歩んだ記録があるのです。
そしてその最後は「死んだ」ではなく、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」と記されています。

 新約聖書でこれを「信仰によってエノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。」ヘブル書11:5

 私たちの歩みも、神様が私を造ってくださり、私の存在を喜んで、祝福を豊かに注いでくださっていることを覚えつつ、神様の素晴しさを表しながら、「死ぬのではなく」「神がおられる天に神が移してくださる」時を、どのような中にあっても、心待ちにしていきたいと願います。

 新聖歌355番4節
♪エノクの如くに 我をも上に
移させ給うまで
日々主と歩まん
一足一足主にすがりて
絶えず絶えず
我は進まん♪

濱野好枝

5月のみことば

 身を慎み、目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のようにだれかをくいつくそうと探し回っています。

Tペテロ5:8

 イエス・キリストの弟子ペテロが、手紙を受け取る人々が置かれている状況を熟知、直視しながら送りました。又ペテロは私達各自の持ち場、立場において、主なる神の恵みを味わい知って、めぐみに堅く立ち、善行を積んで、積極的に戦い進むよう励ましています。

 上記のみことばは、ペテロ自身が主イエス・キリストの弟子としての歩みの中で失敗した過去を踏まえてのことばです。

 主が十字架の前の苦しみの時の、いちばん信頼していた弟子3にんを連れて、祈りに行かれたゲッセマネの園の出来事なのです。

 「惑わしに陥らないように、目を覚まし祈っていなさい。」と言われて、苦しみ悶え祈られる主と共に祈り支える役割を果たすことが出来ず、眠ってしまったのです。

 まさにこの事は、霊の戦いに敗北したペテロの姿でした。

 サタン=悪魔は、キリスト者に向かって、訴え、中傷、悪口雑言で吼えてきます。

 肉の慾、目の慾、暮らし向きの自慢などあらゆる物事をもって、揺さぶってきます。「良いもの」とされていることで思い惑わせることも、悪魔の策略です。

 聖書にマリヤが、イエス・キリストのことばにじっと耳を傾けたのに対し、主に仕えるつもりで、心が奪われ、主ご自身をなじる言葉で罪を犯しました。

 自分自身を霊的に武装するには「祈り」です。祈りによって武装し、敵である悪魔に勝利していかなくてはなりません。

 「祈り」は私たちに「身を慎む」ことを身に着けさせてくださいます。

 「身を慎む」とは思慮深く振る舞う、心を確かにするとも訳すことが出来ます。

 祈りのために、したいこと、欲していることも自制し、専念できるよう、自ら変えていきましょう。

 ダニエルのように、心を定めて、時間を決めて、顔を神様に向けて祈りましょう。

 正しい審判者、正義を行われるお方は、もうすぐ来られます。

濱野好枝

4月のみことば

わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。

ヨハネ6:39

 この原稿を書いている最中に、色々な情報が入ってきます。

 新型コロナウィルス感染拡大、爆発的な広がりはオーバーシュートと繰り返し流れてきます。

 目に見えないウィルスとの戦いは続いていきます。

 両手を上げて神に祈り求め続けています。

 絶対に感染しないようにしなければなりません。

 キリストの御名の為に。神はどのように考えておられるのでしょうか。と問い掛け続けてきました。

 神の答えは、イエス・キリストはキリストのものとされた私たちを、一人も失うことなく、完璧に守ると約束してくださいました。

 旧約聖書ダニエル書たで、ダニエルは、周りの人が陥れようと策略を巡らす中で、1日三度の全能な神に礼拝を捧げることを止めませんでした。礼拝を守り続けてきました。

 真の神を礼拝している為、ライオンの穴に投げ込まれました。

 お腹を空かし切ったライオンは、ダニエルを食べませんでした。(『ライオンも仲良し』)と子ども聖書物語に題がついています。

 エペソ人への手紙では、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。と書かれ、その戦いの武装は、腰に真理の帯、胸に正義の胸当て、足に平和の福音の備え、信仰の盾を持ち、救いの兜、聖霊の剣、神のことばで、悪しき者の火矢を消すことが出来ると。

 私たちの戦いの完全武装と共に、忘れてならないのは、私たちを救い、永遠のいのちを与えてくださった救い主である神のみこころは一人も失わせないと、固く約束してくださったのです。

 「だれが私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか、こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」

 神の祝福をお祈りします。

濱野好枝

3月のみことば

イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。

アモス書4:12

 この預言をしたアモスは、エルサレム南19キロメートルにあるテコアの農夫であった。

 「神がわたしを取られた」と証しした。そこには神の一方的な選びであることがわかる。

 当時BC792-753年、北イスラエル王国にはヤロブアム2世がおり、南王国にウジヤ王がおり、戦いに戦いを重ねて、ダビデ,ソロモン王時代に持っていた境界線に近い所まで回復した。

 この軍事的隆盛に伴い、経済的繁栄もやって来た。

 しかし、豊かな生活は特権階級のみで、貧しい弱い者たちは食い物にされるという状況であった。

 このような時に神はアモスに言葉を与えて、かかる状況は続かない。やがて不道徳な世を神は罰すると。

 アッスリヤの大軍が押し寄せてくると語らせた。

イスラエルの犯した罪とは
@貧しい者を奴隷にした。
A恥ずべき不品行を行った。
B負債を払えない者たちを利用した。
C聖なる誓いを破った。
D預言者たちの口を閉じさせようとした。
E神の訴えに少しも耳を貸さなかった。
F宮殿で強盗を犯した。
G貧しい者たちを虐げた。
H偽善をもって神を辱しめた。
I心を堅くなにした。
J賄賂を取った。
K偶像崇拝者であった。
L利己的であった。
M傲慢であった。
N神の僕たちを迫害した。
O商売で不正を働いた。
これらの罪は私たちにも当てはまります。

 アモスがヘブル語でヤーウェという神の名を52回また他の言い方での神を34回も使って語り続けました。

 力ある神、聖く、正しく、罪を憎む方、なに人もこの方の前には立つことが出来ないと。

 しかし、神は憐れみをもって、神のひとり子イエス・キリストをこの世に降され、人類の罪の処罰を行われました。十字架によって。

 罪赦され、キリストのゆえに神の前に立つことが出来る者に変えてくださいました。

 みことばにある“神に会う備えをせよ”は、@〜Oのイスルエルが犯したと断罪された罪、勿論私たちににもある罪です。

 迫り来る時代の終焉を感じておられると思います。

 キリストの身代わりの死を私のためでしたと受け入れて、神の前に立つ者とさせていたきだきましょう。

濱野好枝

2月のみことば

公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。

アモス書5:24

 新年聖会で、「きよめ」とは、きれいにすること、不浄なものを払拭すること、清掃することと聞きました。
時を同じくして、“冷蔵庫を綺麗にして、食費を減らす方法”との番組が流れていました。

 聖書のヨハネの福音書で、イエス・キリストがサマリヤのスカルの井戸端で、女性に『この水を飲むものはみな、また渇きます。しかしわたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』と話しました。

 イエス・キリストと話しているうちに、キリストの呼びかけが変わっていくのです。

 ユダヤ人⇒ヤコブより偉いお方⇒主よ⇒預言者⇒キリストと呼ばれているメシヤと変わっていきます。

 自分の不設楽な過去を言い当てたと。町の人々に話に行きます。サマリヤの人々はこの女性の証しを聞き信じ、イエス・キリストに会って話を聞き、キリストを信じました。サマリヤの町の霊的復興が起きました。

 イエス・キリストを大歓迎して2日間とどまっていただいたと記されています。

 イスラエル人はサマリヤ人を偶像礼拝の汚れた人々と決めつけ、見下していました。

 当時このような態度であったイスラエルの人々は紀元前700年、アモスが預言者として立てられていた時も、変わらず、社会的不正、道徳的腐敗がはびこっていました。

 法廷においてさえ、金持ちが裁判官に賄賂を掴ませ、貧しい人々が悲惨な状況に追い込まれ、のけ者にされていました。

 アモスはイスラエルの人々に向かって「わたし(神)を求めて生きよ。」主を求めること。信仰の中であわれみを待ち望むこと。主の呼掛けに応答して、主に帰ること。偶像礼拝と決別すること。

 自らの歩みを省みて、活ける者とされ、命の水を谷川のように流れさせていきましょう。

 私たちの生きている時代はあと100秒しかありません。

濱野好枝

1月のみことば

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

ヨハネ20:21

 新しい年が与えられました。

 2019年は異常気象で、とても雨の多い日々でした。台風も沢山やって来ましたし、日本中水害で悩まされました。

 青梅教会の北側白壁はうす緑になってしまいました。

 今年は神様からの恵みの雨を注いでいただいて、素晴らしい一年としていただきたいです。

 とは言え、一年一年と私たちは栄光の中に入れられる時が近づいていることは確かです。

 イエス・キリストが復活された時、弟子たちは閉めきった部屋の中で不安に囲まれていました。

 十字架につけられてしまった師であるイエス、そのイエスを十字架につけたユダヤ人達の攻撃が、自分たちに及ぶのを恐れていたのです。

 主を復活させた神の力を信じることの出来ない、そのような弟子たちの前に、”平安があるように”これは「安かれ」ヘブル語で「シャローム」です。

 神様の特別な啓示が、コミュニケーションがこれから語られようとしているのです。

 弟子たちはイエス様の釘打たれた手と、槍で突き刺された脇腹を見て喜んだとあります。

 手と脇腹につまり十字架の死に基づいて復活が顕され、弟子たちは喜びました。

 この喜びと平安は、一つの使命とミッションを与える平安でした。

 弟子たちは世間が怖かったのです。人が怖かったのです。おじ恐れる彼らに死にさえも打ち勝ち給うた、メシアの平安と喜びとを授けるから、出ていきなさい。

 週の初めの主日礼拝でも、主に出会い、ここで喜びに満たされ、安らぎを与えられ、慰めを受けたら、遣わされる為だと受け止めましょう。

 新しい年に祝福豊かでありますようお祈り致します。

濱野好枝

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