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2021年度
12月のみことば

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。           

Tヨハネ4:10

 待降節に入りました。2021年は2年あまり続く新型コロナウィルスの猛威によって、日本のみならず全世界に襲い掛かりました。

 緊急事態宣言が解除されても、人々の心は不安の中に有ります。

 町に里にイルミネーション点灯を見かけるようになって来ましたが、暗さはぬぐえません。

 先日チェコ共和国首都プラハのクリスマスの写真を見る機会があり、とても心暖まりました。どうじにワクワクしました。

 町全体をイルミネーションで飾り、正に”光は闇の中に輝いている‘のみことばどうりの光景でした。チェコの人々は、毎年高価なボヘミアンガラスのオーナメントを買い足して主のご降誕を祝い、ツリーに飾るのだそうです。

 精巧に作られているボヘミアンガラスは高級品ですね。

 ここで子どもの賛美が口をついて出てまいりました。
‡イエス様と出会った日から すべてがキラキラ
 イエス様の愛のパワー めちゃめちゃ元気になる
 君も 君も 君も 君も 元気になれるよ
 愛されているって わかるんだ
 サイコーサイコー 十字架の愛
 愛されてるって うれしいんだ
 サイコーサイコー  イエス様の愛 ‡

 報酬を期待することなく、無償の愛で、私たち暗闇を歩み続けている者に、また人の親切、思いやりを足蹴にしていた私たちに、神は暗闇(-罪)を処罰する為十字架に掛けるため、この地上に独り子なるキリストを降されました。

 この事をはっきりわかるように、AD(紀元)をもってキリスト降誕の事実を知らしめてくださっておられるのです。

 *学校のれきしで出てきたなあ* *キリストが生まれたんだなあ*
 でストップしていませんか。

 光を届けるため、私たちがワクワク。キラキラ輝くためにキリスト様は来られました。

 今年のクリスマス、この神様のプレゼントいただこうではありませんか。

 メリークリスマス!!

濱野好枝

11月のみことば

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったようにあなたがたもそうしなさい。そしてこれらすべての上に愛を着けなさい。愛は結びの帯として安全です。 

コロサイ人への手紙3:13-14

 10月16日《お茶の水の集い》でのメッセンジャー水谷潔先生は、女性、男性の違い、また結婚での夫、妻の違いについて語ってくださいました。

 未婚者も、既婚者も「あー。そうなんだ。もっと早く聞いておけば良かった。」と異口同音に話しておりました。

 生涯独身を貫いたニーチェは『結婚とは、長い会話である』と言ったそうです。その時の集会で、男女の違いを理解し、受け止め豊かなコミュニケーションをとるよう勧められました。

 違いを理解することなく、断絶を生み出すことのないよう今月のことばを書き進めています。

 第一に、はっきり違いを認め合う。

 第二に、忍耐する(歯を食い縛ってというならば悲惨ですが)神の導きを求めて祈り続ける。

 第三に、他人に対しー共同体の中に不満を抱く人がいるーても、互いに赦し合うようにすること。

 そこにイエス・キリストが、不誠実で不十分な罪人である私を、十字架の身代りの死(父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているかが分かっていないのです)によって赦されたことを思い返し、赦し合うこと。もう一歩進んで、愛を身につけることを勧めています。結びの帯として完全なものとなります。昔イスラエルでは、一枚布のような着物を身につけ、帯で結んでいたので、このように表しているのです。そして、

 パウロはキリストの平和で支配されるように、感謝の心を持つ人になりなさい。と結んでいます。

 共同体での生活の中で、自分の思い、願いを押し通すことは不可能です。自らを律っし、ささげて分断を回避していく努力を怠らないことが、終わりの時代悪魔が必死となって、溝を作り、分断を推し進めようと躍起になっているこの策略に乗ってはいけません。

 キリストの赦しの上に立ち、神の勧めに応えていく者となりたいと思います。

 祝福が豊かでありますように。

濱野好枝

10月のみことば

私は、この岩の上に教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

マタイ16:18

 ピリポ・カイザリヤでの出来事で、キリストの質問にぺテロが答えた後に、イエス・キリストはペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」との答えに『素晴らしい』と思ったのでは(濱野好枝の私感)ないでしょうか。

 このピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖から遥か北のヘルモン山の南麓にあり、そこはヨルダン川の主な水源地である泉があった。

 この町は、ギリシャ文化の影響を受けて、パンを祭った祭壇が数多くあったので"パニアス“と呼ばれていました。しかし、ヘロデ大王がローマに媚を売り、皇帝アウグストからこの町を与えられました。そのようなことがあり、皇帝の名にちなんでカイザリヤにしようとしましたが、すでに地中海沿岸に港町がありましたので、町の名を国主ピリポにもご機嫌とりをする意味で"ピリポ・カイザリヤ“に改名したのです。

 ローマの支配にありましたイスラエルの状況下で、イエス・キリストの存在はどのように弟子たちに映っていたのか、どのように捉えているのかをイエス様はお聞きになったのです。

 岩はギリシャ語て"ペトラ“です。イエス様は機知に富んだお方ではないでしょうか。

 ペテロの名に掛けておられるようですね。

 ペテロの告白は教会の土台です。

 その教会は、ハデスの門(死人の住む所の城門)=死の力を打ち破ることができます。

 イエス・キリストを証することによって信じる者が、神の国に入る門が開かれるのです。

 地上での信仰生活は、天国できちんと反映される約束をいただいているのです。

 教会は、キリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。エペソ1:23

 教会へ行きましょう。満たしていただきましょう。

濱野好枝

9月のみことば

 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神からの警告をうけたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、 信仰による義を受け継ぐものとなりました。

ヘブル人への手紙11:7

 この世界は、神が人を創造してから良い方向に進むはずであった。
 ”生めよ、ふえよ,地を従えよ”と溢れるる祝福に富んでいたものであった。しかし、神への不従順が罪となり、現代に至るまで下降線の一途をたどっていると、言わざるを得ないではないでしょうか。

 しかし、神はあきらめません。私たちに介入し続けておられます。
 現在私たちの立っている時代は、ノアの日のようだと聖書は告げています。
 ノアの時代、悪が増大し、人間たちが神との交わりではなく、罪と死を選びました。神はこのことを悲しまれ、正しく歩んでいたノアに声をかけられました。
 創造主であり、完全なお方、愛に満ちている神に対して、与えられた命令を疑うことなく、周囲の人々の嘲笑をもものともせず、長い期間に渡る巨大船の建造作業に従事したのです。

 船を建造しつつ、周囲の人々に滅びが訪れることを警告し続けました。
 ノアは農夫ですよ!  船の建造事業は神様の指図によって成し遂げることができました。
 ノアの生活は神に信頼しながら歩んでいたので、周りの人々からのけ者にされていました。
 乾ききった陸地で巨大な船を造るように命令され、恐れかしこんで、黙々と従ったのでした。
 人々は嘲笑い、神からの警告に耳を貸すことなく、水の底に深く沈み、神に従順に聞き従ったノアの家族の乗った船はぽっかり浮かび上がって、どんどん上に行く。

 聖書はつげています。神様に聴き従い続けることは、神の声をないがしろにする者を罪に定めるのであると。
 祝福、救いを求める者とせられましょう。

濱野好枝

8月のみことば

 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したらまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。 わたしのいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ14:3

 これはイエス・キリストが十字架にかけられる前に、弟子たちを前にし、語られたことばの最初の一つです。
 救い主、キリストの救いは十字架によって全人類の罪の贖いをするためでなく、復活し、父なる神のもとにかえり、この地を神の支配する所とするために、再びこの地上に来られる約束のことばが、今月のことばです。
 2000年前にこの地に降られた神のひとり子なるイエス・キリストは、信じて待ち望む者たちに「場所が準備出来たら、迎えに来る」と約束されたのです。

 自分の居場所がない。と自分の境遇を呪ったりして、自分を痛め付けたり、他の人々を苦しめたりしがちな私たちです。
 聖書にヨブという人物が登場します。
 ヨブと名前があるので、神を恐れ正しい人なのです。聖書もそのように記しています。サタンが神の赦しを受け、ヨブの財産を根こそぎ奪い、ヨブを皮膚病にし、奥さんからは呆れ果てられてしまいました。その時、『私の生まれた日は呪われよ。』と声を挙げました。
 しかし、神様に祈り、叫び声を上げ続けた結果、ヨブに分かったことがありました。自分の愚かさです。
 “私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今私の目があなたを見ました。それで私は自分を蔑み悔いています。チリと灰の中で"ヨブ記42:5-6

 耳で聞いていたとヨブは告白しましたが、上の空、馬耳東風であった訳です。
 今、悔い改め、ハッキリ目(心の目、魂の目)で生ける神様を見ることができた。と。

 イエス・キリスト様が、今月のみことばをお話になられた時も、弟子たちはきっと、目に見えなくなってしまう助け主であるキリスト様を思い悲しみ、動揺していたのです。
 イエス様は、迎えに来るよ。準備してくるからね。
 わたしは、あなた方と何時も一緒にいたいんだよ。
と語りかけておられます。

 讃美歌に
 目には見えねども、我が行くべき道
 常に示したもう、主ぞ懐かしき
 所を備えて 我を待ちたもう 君にまみゆる 日ぞ懐かしき
有ります。

 神様の優しさ、愛に満ち溢れることばに感動です。

濱野好枝

7月のみことば

 あなたがたが神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

ヘブル人への手紙10:36

 このみことばの前の節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。」と記されています。
 ユダヤ人クリスチャンの中に確信を投げ捨ててしまうようなおそれがあったのでしょうか?
 AD61年に、クラウディオ帝によるユダヤ人退去命令が出され、ユダヤ人はローマから追い出され、そればかりではなく、財産をうばわれたり、牢に繋がれたりしたのです。
 でも、クリスチャンたちは、牢に繋がれた人々と苦しみを共にしました。
 自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、じぶんの財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。
 迫害ですね。

 パウロは、『私はイエスの焼き印を身に帯びている』と言いました。
 また、ユダの総督ゼルバベルに、『わたしはあなたを選んで印章とする』と告げられました。
 まさに確信というものです。
 主イエス・キリストより与えられた、いつまでも残る財産=永遠のいのちです。

 イエスの血によって、邪悪な良心がきよめられ、大胆に神に近づくことができるように、神様とお話ができるようにしていただきました。
 十字架による救いは、罪からの赦し、復活の希望、永遠のいのちの約束を与えてくださいました。
 約束してくださった方は、絶対に嘘をつかないので、迫害や圧迫、苦難に揺らぐことなく、復讐を自らすることなく、一切を神様に委ねることが出来ます。
 私たちの希望を告白できるお方なのです。

 こんなに確実に、真実をもって答えてくださるお方、信仰の創始者、完成者であるイエス様に、しっかり注視し、主にある交わりを保って約束のものを手に入れましょう。
 キリスト者どうしの愛と善行を促すために注意し、また、集まりをやめることをしないで励まし合いましょう。
 主の日(約束を果たされる)が近づいていることが分かっているあなた方ですから、ますます励もうではありませんか。

濱野好枝


6月のみことば

 御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

2コリント12:11

 5月、教会ではペンテコステ(聖霊降臨)のお祝いをしました。

 聖霊が降り、教会が起こされ、神のみことばが力強く、全世界に宣べ伝えられて行きました。

 キリストが復活し、天に昇り、約束の聖霊が注がれたのです。

 その聖霊は、一人ひとりに賜物(The fruit)を与えてくださると神様は約束されました。キリストに連なる者ーキリスト者は、主の僕であるので、それぞれ奉仕を与えられます。

 奉仕は種々あるのですが、それは皆同じ主(キリスト)から与えられるもので、各自が群れ全体のために仕えるのです。

 各自が委ねられた奉仕を果たすことを可能にするのは、キリスト者の内に与えられた「聖霊の賜物」の故です。

 この聖霊の賜物は教会を生き生きした存在とする原動力で、全体と個人の有機的結び付きを支えるものです。

 聖霊の賜物の9つの実例があげられています。

 知恵のことば、知識のことば、癒しの賜物、信仰、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力です。

 「知恵のことば」で、現されている聖書の箇所を紹介しましょう。

 ペンテコステの後、民や民の指導者たちを前にして、使徒たちの大胆で、力強く語る様子を見、無学な普通の人であるのを知って驚いた。という聖書の記事があります。

 与えられた賜物を用いて、教会が生きて働く神様を示すことができるのです。

 からだは多くの部分を有機的に機能させて、神様の栄光を現す者となります。

 私たちは大切な部分なのです。この私たちに神様は賜物(実、贈り物)を与えてくださいました。神様のために。

 主の働きに十分に用いていただきましょう。

濱野好枝

5月のみことば

 さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。

マタイ25:34-36

 今月のことばは、キリスト様が十字架にかけられる前にお話しになった、神の国の到来の時、神の国に入って行く人々のことをお語りになりました。
 十字架にかけられる前の裁判で、大祭司の「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか答えよ」との尋問に、イエス・キリストは「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」と答えられました。

 このことばによって死刑が確定したと聖書は記しています。
ですから、キリスト様は、全人類を神の国へみちびくために、その命を懸けて十字架につけられ、罪の罰を受けられたと言って良いでしょう。
 神様の願いは、すべての人が滅びないで、永遠の命を受けて神の国へ行くことなのです。
でも、罪人である私たちは、死、滅びが決定されています。
 神様の大きな愛は、神の一人子イエス・キリストに私たちの罪の罰を負わせ、私たちを救い、永遠の命を持つようにしてくださいました。
 神の国の到来に、すべての人々が集められ、備えられた御国を受け継ぐ者と、呪われた者と言われて、悪魔とその使いのために用意されて、永遠の火に入る者とに分けられるのです。

 二度にわたり、『これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者の一人』について語りました。
 その者に愛を示した者は《キリスト様、神様》にしたのだと仰せられ、「御国を受け継ぎなさい。」と命じられるのです。

 わたしの兄弟たちとは、教会に所属している、お祈りをしているという信徒の兄弟でもありません。
 私たちに向かって、何かを期待し、私たちの助けを頼みにしている兄弟のことなのです。
 生きるのに無くてならぬ物にも事欠き、食べて満たされることもなく、最低限の物で生きている。飢え渇いている人々や、問いかけの目を大きく見開いている子どもたちというかたちで、また、異国人の姿をとってキリスト様は私たちの間におられるのです。
 病人の姿をとって、あるいは獄屋に捕らわれの身の姿をとって。

 私たちがキリストを認めるかどうかと、どのようにして出会うのかと、また人の子の隣人となるために、どんな犠牲を払っているのか問いかけておられるのです。
この箇所で、キリスト様はご自分のことを、"人の子"と自己紹介しておられることも興味深いことです。
 人の子が、栄光の中に来られるとき、関心を向けられるのは今月のことばなのです。
 『祝福された人々』と、神様から声をかけていただきましょう。

 祝福をお祈りいたします。

濱野好枝

4月のみことば

 私はこう確信しています。死も。いのちも御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ローマ人への手紙8:38-39

 神が生きておられる、力をお持ちの方であることを顕著に示されたのは、キリストの復活です。
 罪人である私たち人間の罪を赦すために、神の独り子であるキリストが、私たちが受けねばならない罪の罰を地獄に行って受けてくださいました。
 罪の力、支配から完全に勝つために復活されたのです。
 『死は勝利に呑み込まれた』とのみことばが実現しました。
 聖書の他の箇所では、「あなたのために、わたしたちは休みなく殺され、屠られる羊と見なさています」と記されていますように、私たちのために、三位一体の神様が、踏みつけにされ、犠牲の羊のようにされているのです。

 復活は、神の絶大な力と愛が凝縮された出来事なのです。
 上記のみことばのように、死も(死ぬこと)、いのちも(生きること)、御使いたちも(天にあるもの)、支配者たち(この世の権力)、今あるもの(現在)、後に来るもの(未来のこと)、力あるもの(全てを動かす権力)、高いところにあるもの(天)、深いところにあるもの(地獄の力)、どんな被造物でさえも。
 滅ぶべき私たちを生かしてくださり、大きな愛の手から、引き離すことはできないのです。

 この神様、活けるお方に、どのような形容詞を使っても、表すことが出来ないと考えます。

 復活の前には、死があります。
 イエス・キリストが十字架き架けられるまえの数時間に、ヘロデ王の前に引き出され?大祭司カヤパ、前大祭司アンナス、ユダヤの議会(サンヘドリン)、ローマから派遣され、当 時の支配者ピラトそれぞれの裁判での尋問、最終的に総督ピラトの採決によって、十字架を背負わされました。
 この世の権力者、支配者の元で苦しみを受けられたのです。
 罪人が十字架で絶命するには数日間かかると言われていますが、イエス・キリスト様は、かかる苦しみ、悩みを受けられましたので、6時間でその命を落とされました。
 ハデス地獄の力も及ばないことは、映画『パッション』で、イエス様がゲッセマネでの苦祷の末、神の御心をしっかり受け取り、立ち上がった時の様子に見事に表されています。
 《悪魔》がギャフンとしている顔です。

 すでにこの時に悪魔に、死の力に勝利したのです。
神の愛は聖書の至るところに表され、復活により最高潮に達しています。

 ハッピーイースター。心から賛美を捧げます。

濱野好枝

3月のみことば

 ハンナは立ち上がった。

1サムエル1章9節

 神様のことばを与えられ、神様のことばを宣べ伝えるために選ばれたイスラエルは、主の手に導かれ、モーセを指導者としてエジプトを脱出し、神様が約束された土地カナンに向かって出発しました。

 モーセの死後、後継者ヨシュアが立てられ、幾多の困難を乗り越え、カナンを占領しました。その後長老たち、裁きつかさ(士師)が起こされイスラエルは導かれあゆみました。

 旧約聖書士師記の最後は、「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」のことばで閉じられています。

 そのような時、神様は最後の士師であるサムエルを誕生させたのです。

 聖画の中で有名な、光の方に向かって、両手を合わせて祈る少年サムエルをご存知の方も多いと思います。

 サムエルの父エルカナは、毎年礼拝をささげるため、シロ(神殿のあった場所)に二人の妻と子どもを連れ、ささげ物を持って出掛けました。二人の妻ハンナには子どもがなく、ペニンナには子どもがありました。

 胎を閉じられていたハンナのことを夫エルカナは、とても心にかけて、愛を注いでいたと記されています。

 もう一人の妻ペニンナは、ハンナを敵と見下し、子どもがないことでハンナを苛立たせておりました。ハンナの怒りをかき立てたのです。

 そのようなことが 毎年毎年続くので、ハンナは泣いて食事をしようともしなかったのです。

 ここで今月のみことばです。
文語訳では、『ハンナ立ち上がれり』と記されています。
立ち上がり、神様の前に祈りをささげたのです。

 自分のことを考えて、敵視され、意地悪され、苛立たせられ、この苦悩から救ってくださいと祈ったのでしょうか?

しかし、ハンナは違いました。祭司エリは年老いており、エリの二人の息子(後継者)たちは堕落し、職務を遂行できない状態であり、イスラエルの民は自分勝手に歩んでいる状況を鑑み、「神様の御心を行う忠実な祭司、士師が与えられますように。」

 「私に子どもを与えてくださいますならば、その子を神様のお役に立てるようにささげます。どうぞよろしくお願いいたします。祈りに答えてください。」と必死に祈りました。

 その様子は、祭司エリが酔っているのではとおもい、見間違ってしまいそうになる、恐ろしいばかり真剣に、心を注ぎ出していたのです。

 混乱し、腐敗し、終末に向かっていると多くの人が思っているこの時、自分のことは後回しで、まず神の御心を求める人、ハンナのように立ち上がる人を神様は求めておられるのではないでしょうか。

 私も、神様に目を向けて立ち上がりました。

濱野好枝

2月のみことば

 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

ローマ人への手紙1:17

 宗教改革のスローガンは “ただ信仰のみ、ソラ・フィデ”でした。

 信仰によって生きるとは、救いを得る神の力であるキリストに信頼しようという依存心、自分の力に頼らない、人間の知恵とか業に依存しないというあり方を、自分の歩みの指針としていくことでしょう。

 「救い」と「義」という言葉は、聖書の考えでは「義」でなければ「救い」でないというほどのものです。

 日本では、あまり馴染みのないことばでありますが…。「義」とはなにかと言うと、「神である」と言っても間違いではなく、神=義と言い換えても良いと思います。

 神様が真っ直ぐな方「義」であられるので、救われて神と共に生きる、あるいは、神様の祝福に入るためには、人もまた、神の真っ直ぐな物差しに沿えるような義になることが絶対に不可欠なのです。

 昔イスラエルが、エジプトの国で奴隷として虐げられていた時、モーセはイスラエル人を代表してエジプトの王と何度も掛け合いました。

 次から次へとエジプトの魔術と、イスラエルの神の奇跡の力とが一騎討ちする出来事が続きました。

 とうとうついて行けなくなったエジプトの王パロは降参しました。

 降参した状況を読み解くならば、主なる神が義である、真っ直ぐであるという物差しに照らして、「私と私の民は曲がっている」、「悪い」「罪を犯している」ということになるでしょう。

 正しさというものは、人間が考えて、人間の物差しで測るのではダメなのです。

 人間的な目で見たら、ある人は正しいことをしていると見え、評価されても、神様から見たら、どろどろの罪、汚れにまみれ、木の葉のように枯れ、風に舞い揚げられるようなものです。(イザヤ書64:6)

 不潔で罪深い者に、神様が怒りではなく、恵みのプレゼントをくださる「義」これが福音だとパウロは言うのです。これを受け取るのは、「信仰」によるのです。

 神様の真っ直ぐな物差しに、不潔な自分を寄り沿わせて、こんな自分に頼らない、罪にまみれた者にプレゼントとしてくださる神様に、素直に手を差し伸べて「救い」を受けとりたいと思います。

 『生きる』『命』という言葉は、アラム語で『救い』と言うことばと同じです。

 「この救いのことば」(使徒の働き13:26)をアラム語は「命のことば」と訳してあります。

 『生きる』ということは『救われる』救いの生活を生きると言うことです。

濱野好枝

1月のみことば

 主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。

U歴代誌16:9

 新年おめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。

 旧約聖書ー歴代誌は、アダムから始まるイスラエルの民のルーツをたどり、王の系図と人格をもった神の愛の計画が詳しく記されています。
 イスラエルの歴史が要約され、国民を一つにまとめるために、ユダヤ人の霊的な伝統が強調されています。
 イスラエルの人々が過去を思い出すことによって、神のみもとに立ち返るために記され、神に従うことによってのみ、祝福と繁栄があることを強く訴えています。

 アサ王(六代目の王、南ユダ王国第3代の王)の記事は、14-16章に渡って記されており、この王さまがいかに善政を行っていたかという現れであります。

 善政とは、最も大切な神にしっかりと信頼しているということなのです。

 その最たる所の記事は14:11「主よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりはありません。私たちの神、主よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください。」と。エチオピアの100万の機械科部隊が攻めて来た時のアサ王の祈りです。

 58万の歩兵だけのユダの軍勢に勝目はないはずと考えるのですが、神は祈りに応えて、勝利を与えられたのです。

 15章では、偶像礼拝を廃止したと記されています。

 そのアサ王が、北イスラエルとの戦いに、北イスラエルと同盟を結んでいたアラムの王に賄賂を送り、同盟を廃棄してくださいと頼んだのです。

 この計画は、神の喜ばれる道ではありませんでした。

 この事を叱責(今月のみことば)した預言者ハナニに対して、激怒し、投獄し、民にまで怒りをぶつけるという悪行を行いました。

 アサ王は、死ぬまで神に対する過ちを認めず、頑なになって、病気になっても神を求めなかった、と記されています。

 神様に対しての過ちを認めて、赦しを受け入れるより、自分の人生の失敗を正当化し続けることが誤りなのです!

 “目的のために手段を選ばず”ではなく、前に進むために素直になって、その中で学んでいくことは、正当化することに時間を費やすより得策だとは思いませんか?

 今年も愛する皆様にとって、神さまの祝福豊かな1年でありますようお祈り致します。

濱野好枝

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